鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ユステイの記述が驚異的なのは,これら蒐集された彫刻について,ベラスケスの帰国後に設置された場所や受けた扱いのみならず,他の誰もがしなかった石膏型とその鋳造ブロンズ像の区別,18世紀におけるその設置場所,後にプラド美術館やサン・フェルナンド美術アカデミーに移動される経緯に至るまで言及していることである。それは,彼国が経験した古代彫刻の受容小史といっても過言でない。ベラスケスの活動を契機にして,スペインの美術経験の域まで描き出されることになっている。このユステイの態度は,一見「古代彫刻蒐集」に限らずベラスケス研究の全ての局面に共通するかに見える。しかし,注意深く検証すると,古代彫刻とその所蔵場所ローマがユスティの中で特別な存在であったと思われる点が看取できる。ベラスケスのローマでの行動を,ユステイが現実には存在しない〈日記〉の形態で記述したことを想起しよう。後世,彼が自分の研究主題にいかに深く入り込んだかを述べる時に引き合いに出されるこの逸話は,当時,ベルリン学派や外国人研究者の問で「担造」として騒がれ,暴露本が出る事態まで引き起こした(注18)。本人としては「当時のローマが,外国人であるひとりのスペイン人美術家に与えたに相違いない印象を描くため」で,「ベラスケスの筆になる新発見の断片の翻訳であると信じ込ませよう,などとは夢にも思わなかった(注目)」この〈日記〉について,「担造jか「レトリック的戦略」かの是非をここで問うのは無意味で、ある。我々は,むしろユステイが画家のローマ到着を日記の体裁で記述する「魅力に屈した(注20)」その理由,及び,この騒動の背景に注目べきであろう。ことベラスケスのイタリア旅行だけに限れば,ユステイが入手し得た情報源は限られたものだ、った(注21)。しかし,彼はそれ以前にヴインケルマンに関する研究書を纏めており,特にそのイタリア時代の調査で現地ローマに滞在してもいる。当然,彼はかつて,あるいは当時もそこに存在していた古代彫刻について豊富な知識を持っており,先に挙げた「古代美術」の項だけでなく,著作の随所にその知識が活用されている。ヴイラ・メデイチの歴史的説明(注22),{ウルカヌスの鍛冶場〉のアポロンの表現(注23)にはもちろん,殊に〈日記〉に顕われるベルヴ、エデーレの描写(注24)は臨場感に溢れている。また,「蒐集」の協力者と考えられる考古学者・文献学者を「ヴインケルマン的気質(注25)」と評し,かつての研究対象とイメージを重ねてもいる。ヴェントゥーリは,ユステイが選んだこつの研究対象,ヴインケルマンとベラスケスの性質があまりに対比的であることを指摘している(注26)が,以上の事情は両者412

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