3.美術史学の方法論と「古代彫刻蒐集jの接点がこの「古代彫刻」と「ローマjであったことを指し示してはいないだろうか。ユステイのベラスケス研究の契機が,ローマで見た彼の〈イノケンテイウス十世の肖像〉だ、ったという逸話(注27)は,あまりに象徴的である。ローマを離れてスペインにやってきたメングスについて,ユスティは,古代彫刻のコピーが「敵の街(マドリード)における彼の唯一の友人たち(注28)Jだ、ったと記している。そこには,志したイタリア美術研究を離れ,スペイン美術の世界へ踏み出した(注29)彼自身の心情も重ねられているのかもしれない。いずれにせよ,ユスティは,ベラスケスの「制作」以外の芸術への関わりも併せて扱い,当時の宮廷画家の有り様や芸術の受容の様子を捉え,近代的な概念の「画家」としてだけでないベラスケス像を示している。ユスティが美術史学の歴史の中で受ける評価は,ブルクハルトに代表される「文化史としての芸術史」,ヘルマン・グリムと並記される「伝記作家」ゃ「後期ロマン主義者」といったものに終始している(注30)。このような後世の評価には,彼の研究の豊富な情報量と文化的理解を評価する反面,伝記的体裁でその人物の天才性を強調する方法論を批判し,返す刃で同時代の芸術やグレコ再発見への挺理解を指摘して,結局はその限界を言い渡してみせる傾向がある。一部を除いて彼を等閑に付した(注31)後の美術史学の系譜の源をここで確認しておくことにしよう。まずは件の〈日記〉の騒動の背景である。これが当時ベルリン学派やフランスの研究者の聞に引き起こした反発については先に述べた。ヘルヴイツクは,特に1919年のフランス人研究者ブレアルのユスティ批判に関して,彼の執劫な攻撃と度を超した中傷の裏にユスティ個人を通り越したドイツ美術史学ひいてはドイツ全体への批判的姿勢を指摘し,その背景として折しも終結したばかりの第一次世界大戦を見ている。更に,続けて,その5年後に発刊されたヴェツォルトの辞典を引き合いに出し,ドイツ国内ではユステイの〈日記〉は容認されていたことを述べている(注32)。しかし,フランス人研究者に起った国家単位の対抗心が,ドイツ側になかった理由はどこにあろう。ましてヴェツォルトの著作は国を代表する美術史家を歴史的に扱ったものである。このドイツの「容認jの背後にもまた,まさにヘルヴイツクがフランス側の姿勢の背景に見た,国家を単位とした意識があったと考えるのが妥当だろう。むしろ,ここで隠蔽されたのは,ドイツ国内で,ベルリン学派系の学者がユスティに示していた-413-
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