学博物館には,博物館成立の端緒となったフランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)のコレクション中に約450点の日本絵画,約500点の版画書籍が存在する(注1)。帰国した彼が公開したコレクションを1835年にみたあるドイツ人は次のように述べている。「…シーボルト氏が日本からもち帰った宝物と比較できるものは,多分ほかのどこにもないだろう。見る人はいきなり,まさに月にいる男のように,これまでに世の中に知られていなかった,ある民族文化の発明,風俗習慣,芸術,科学,そして産業の世界に移動させられたような気になる。…このような模型だけでは満足しない人達のために,数え切れないほどの絵画や巻き物が展示されている。J(注2)博物学や民族学のために彼が川原慶賀らに描かせた多くの図譜以外に,彼はどのような絵画を並べていたのだろうか。フランツ・フォン・シーボルトは,1823年に長崎の出島のオランダ商館の医師として来日したが,国禁にふれて1829年に日本追放となった。1830年に帰国すると,1832年にはライデンに展示場を借りて自分のコレクションを公開した。またこの年から1858年までかかって22分冊の形で大著『日本』を刊行している(注3)。彼の積極的な広報活動が実って,この私設展示室は1859年に国立フォン・シーボルト博物館となり,1862年にはライデン民族学博物館が発足することになる。シーボ、ルトの旺盛な収集意欲を刺激したのは,1816年に日本,中固などの美術品641点で開設したばかりのオランダ王室骨董陳列室にむけて彼の前任者たちが展開した熱心な収集活動である。ハーグのマウリッツハイスに設けられた王室骨董陳列室には開設直後,長崎出島の最初の滞在から帰国したブロンホフ(1779〜1853,1809〜1813年と1817〜1823年に長崎滞在)が銀製の五重塔と日本の貨幣などを寄贈し,次回の日本滞在で収集するコレクション売却の布石をうった。二度目の日本滞在中にブロンホフが収集したコレクションは1826年に王室骨董陳列室に購入され,彼はその代金で終の住みかとなる新居をハーグに獲得している。もう一人のオランダ商館滞在経験者オーベルメール・フイツセル(1800〜1848,1820〜1829年に長崎滞在)のコレクションも,1832年にこの陳列室に入っており,これらのコレクションは後の1883年にすべてライデン民族学博物館に統合される(注4)。動植物標本,6.5×3mの大きさの出島の模型など(注5),博物学的,民族学的な様々な所蔵品の中,博物館のデータベースには絵画として1481件が登録され,その大半に写真画像が付いている(注6)。それらはディスクの入れ替えをする必要がないほ-421-
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