19世紀のウィーンにおける極東美術収集の歴史には,フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリッヒ(1852〜1908)が重要な役割をはたしている。彼の兄アレクサンダー(1846〜1911)は,追放を解かれた父シーボルトが日本開国の手助けたらんと1859年に再来日した際(注11)'12歳の若さで同行して日本語をマスターし,イギリス公使館の通訳官に雇われて,1863年の薩英戦争の際の通訳などを皮切りに,1867年や1878年のパリ万国博覧会,1873年のウィーン万国博覧会,不平等条約改正の交渉などに,ヨーロッパと日本を行き来して日本側の重要な通訳として活躍した(注12)。三度目の来日の際,父シーボルトが作りあげたコレクションの内の書籍を大英博物館に売却し,その他の最初の収集物より高価な工芸品の多いコレクションがミュンヘン国立民族学博物館入りするよう尽力したのもアレクサンダーであり,ヨーロッパ各地の博物館,美術館の極東美術収集に多大な貢献をした(注13)。そうした兄の活躍を見ていたハインリッヒは,1869年に17歳で高等学校卒業をまたずに兄と共に来日してやはり日本語を習得し,1872年にオーストリアの現地採用通訳官となり,日本に長く滞在して,訪日したオーストリア皇太子の接待など,オーストリアと日本との橋渡しを果たした。1872年には東京で骨董商の娘と,1885年には大阪知事の媒酌で旅館の娘と結婚するなど,日本生活に深くなじみ,旺盛な美術品収集を行う一方,1877年の大森貝塚発掘など考古学の研究もすすめた(注14)。1864年にウィーンに設立された帝室美術工業博物館は,製陶業の参考資料としての陶磁器を中心に1883年の時点で120点の日本関係コレクションを所蔵していたが,ハインリッヒはこの年にこの美術工業博物館に会場を借りて自分のコレクション80点を展示し,一部を寄贈するなどして自分の収集をアビールした。すでに父もなく学歴も不足していて,兄のように外交官としての出世が望めなかったハインリッヒは,父のように学術的研究や収集の実績で自分の地位を築こうと努めたのであり,1888年のオーストリア帝室博物館設立に際し,日本関係のコレクション約5200点を寄贈し,この功により1891年に時の皇帝フランツ・ヨーゼフから男爵位を授けられた。この寄贈の中には,1021点の絵画と掛軸(宗教関係のもの255点),水墨の巻物・掛軸・版画1205点,貨幣1077点,書籍と地図500点,アイヌ民族文化に関するもの135点,琉球関係89点,石の鎌168点などの考古学的発掘品,鎧と万240点,装飾品120点,仏教など宗教関係のもの135点,陶磁器60点,漆器50点なと守が入っていた(注15)。1873年の万国博覧会の2年後ウィーンには,外国から輸入された工芸品を展示する424
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