東洋博物館が発足し,1886年には貿易博物館と改称されていたが,1892〜93年にここにハインリッヒが寄贈した膨大なコレクションの一部(絵画,鎧と万,やきもの,織物などの工芸美術品)とウィーン企業家マンドルがシーボルトから購入したり,中国や日本で自ら集めたコレクションの寄贈が登録された(注16)。貿易博物館は1907年に解体され,工芸美術に類するものが帝室美術工業博物館(現在のオーストリア国立工芸美術館MAK)の所蔵となり,今日にいたっている。この中には反物の染型8000枚,墨絵2600枚,鍔117点,扉風6双,掛軸63幅(仏教関係36),仏像3体,仏壇3基,陶磁器58点,漆工芸(箸,櫛,小箱など)20点,着物類30点,鎌倉時代の馨2点などが含まれるが,書籍,版画の類いはない。学芸員のウィーニンガ一氏によると,現在MAKに所蔵されている297点の肉筆画の内,66点がハインリッヒのコレクションにあったもので,扉風6双,仏画33点,花鳥画70点ほどが確認できるという。また貿易博物館経由で、入ったと思われる,天女を彫り出した欄間彫刻や厚い金地に唐獅子を大胆に描いた板壁など,徳川家の霊廟建築の遺構もある。これは,東京芝の増上寺の周辺にあった徳川家光の三男綱重(四代家綱の弟,五代綱吉の兄,六代家宣の父)の霊廟,j青揚院殿が1878年に取り壊された際,最後の将軍徳川慶喜と親交するなど徳川家に縁故の深かったハインリッヒが手に入れたと考えられている(注17)。1896年に日本からオーストリアに帰国したハインリッヒは,1899年には南チロルに購入したフロイデンシュタイン城に隠遁して,手元に残るコレクションの整理,売却,贈呈などに余生をささげた。このように日本美術はさまざまな機会をとらえ,19世紀のオーストリア国民に紹介されたのであり,画家グスタフ・クリムトも鎧胃や浮世絵などを収集していた(注18)。彼がリーダーをつとめたウィーン分離派は,1900年の第6回展で美術商アドルフ・フイッシャーのコレクションを借りて浮世絵展を開催してもいる。1901年には帝室美術工業博物館(現在のMAK)において,実に630点を展示する大北斎展も開催された。これは葛飾北斎の最も早い個人展覧会である。1905年には工芸美術館の全展示室を用いて,ハインリッヒの手持ちコレクションを交えた大規模な「日本古美術展」が催され,この機会にハインリッヒの浮世絵コレクション370点が,着物の模様を参考にする目的で購入され,同年には「18,19世紀の逸品合計516点jの購入を記念して浮世絵版画展も開催された(注19)。現在MAKに所蔵されているハインリッヒの浮世絵コレクションに関しては,宮城-425-
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