鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
438/763

27)とデュレが豪語するように,大仏の周りにはさまざまな仏像類や仏画が陳列され,30)。術工芸品をパリにもち帰った。この年パリで世界東洋学者会議が開催され,それを記念した産業宮での極東美術展に,彼は早速1500点に上る美術工芸品を出品した。その中には目黒の幡龍寺境内に放置されていたのを買い取り,解体してパリまで運び\パリのブロンズ職人に復元させた4.5mの大仏も含まれていた。9月4日から翌年の1月末までのこの展覧会の開期にあわせて,このアジア旅行に同行した文筆家テオドール・デュレは,「ル・シエクルj紙に旅行記を連載し,翌年に『アジアの旅』と題して出版した(注24)。極東美術展には他のコレクターも出品したが,ゴンクールが日記に「チェルヌスキの日本展jと記し(注25),別の批評家が中固など他の国の美術品の少なさをこぼすほど(注26),会場ではチェルヌスキ・コレクションの日本色が異彩を放っていた。会場写真なと守残っていないため,当時の展示状況は批評家たちの証言から推測するしかないが,「如来像の他にも我々は仏教や仏陀の伝説に関する人物像の全体を収集した」(注「地獄の絵」が衆目を集めたという(注28)。フランスで最も早い時期に日本美術を論じたエルネスト・シェノーを友人にもち(注29),1867年のパリ万国博覧会以来の日本熱にのって1869年に開催された「東洋美術館」展で,インドの細密画や日本版画を模写するなど,以前から東洋美術に興味を抱いていた画家ギュスーヴ・モロー(1826〜1898)は,この展覧会に足しげくかよい,時には朝の7時半に特別に会場に入れてもらって展示品を研究した形跡がある(注モロ一美術館の素描フォリオには,チェルヌスキ・コレクションの中の不動明王立像,蓮華をもっ観音座像〔図3〕,阿弥陀仏の台座,青銅の花瓶の装飾モチーフ,ジャワやインドの遺跡の写真の模写,仏頭,仏陀立像,観音立像,微笑するアンコール仏などを描いた素描が多数収められている(注31)。このコレクションを展示するため,チェルヌスキはパリのモンソ一公園脇に土地を買い,邸宅をたてて,独身のまま1896年に死去するまで住んだ。葬儀の折の写真は,彼の枢が二階大広間の大仏の足もとに安置され,自分のコレクションに見守られている様を伝えている〔図4〕。この邸宅と内部のコレクションはパリ市にそっくり遺贈され,翌年チェルヌスキ美術館が開館した。チェルヌスキの生前と開館当初のコレクションの展示は,恐らく写真にあるように,-427-

元のページ  ../index.html#438

このブックを見る