鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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4.国立ギメ東洋美術館とエヌリ一美術館エミール・ギメ(1836〜1918)は,父親が人造青色顔料の発明者で,その関連工場の経営をうけつぐ企業家であったが,音楽や美術への造詣が深く,エジプト,ギリシヤ,中近東へ旅して古代美術を収集していた。1873年の国際東洋学者会議で「日本,中国,タタール,インドシナ研究会」のメンバーとなった彼は,1876年5月から翌年の3月まで,宗教調査団の名目で極東へ収集旅行を行った(注37)。中国での収穫の無さとは対照的に,日本では宗教各派の代表と会談したり,京都で東寺の立体蔓茶羅を仏師に模刻させるなど,多種多様な宗教美術を収集することができた。現存する長茶羅の欠損を補い密教の教義通り23体の仏像で構成されるギメの立体長茶羅は,1878年のパリ万国博覧会の「極東の宗教」館に飾られて諸仏の幻想的な威容を印象づけた〔図8〕(注38)。ギメは翌年に故郷リヨンでコレクションを展示する博物館を開館したが,世界各地の宗教を研究する活動の啓蒙性を考えて,パリに宗教博物館を開設することにし,国が用意した土地に自費で博物館を建設,コレクション共々国家に寄贈した。国立ギメ博物館は1889年に世界初の宗教博物館としてオープンしたのである。展示の中心は,なんといっても日本で収集した仏教美術だった。19世紀後半のパリの文化人の聞には,美術上のジヤボニスムだけでなく,仏教への関心も高まっていたのであり(注39),ギメ博物館では1891年と1893年に仏像の前で日本の僧侶による法要すら行われて,大統領をはじめ,画家ドガ,彫刻家バルトロメ,政治家クレマンソー,医学者パストウールなど200人もの政界文化人が参列したという(注40)。売れっ子の劇作家アドルフ・エヌリー(1811〜1899)の夫人は,まだ彼の愛人クレマンス・デグランジュ(1820?〜1898)であった1850年代から,狛犬や唐獅子といった「中国の怪獣たちjを好んで収集していたが(注41),ギメとの交流から自分のコレクションで美術館を造ることを思いたち,エヌリーと正式に結婚する5年前の1875年から邸宅を建設して,1877年からそこに住みつつ,美術館設立のための収集と展示に熱情をそそいだ。夫妻の死後邸宅はそっくり国家に遺贈され国立エヌリ一美術館となっている(注42)。現在のエヌリ一美術館は,ギメ美術館の分館になっており,上にギメ美術館館長の公邸が設けられている。館内の展示は夫人の遺言により,生前の彼女が飾り付けた状態が維持されている。作品の学術的分類展示ができないことがこの美術館の限界なの-429-

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