注(1) 学芸員フォラ一氏からの聞き書き。(2) 1835年に訪問したドイツの軍人LudwigFreiherr von W eldennの証言。マッテだが,その豪壮華麗な陳列の有様〔図9〕は,19世紀の極東美術コレクターの趣味を今に伝える貴重な遺産と言えよう。現在,建物の老朽化により床が痛んで閉館を余儀なくされているが,この美術館の長年の研究者ヴァルイ女史のご好意により,内部を鑑賞させていただいた。仏像は少ないが華麗な厨子に入ったものが2体はあり,蓮華をもっ天女を掘り出した欄間彫刻や,精巧な彫物をした仏像の蓮華座だけが展示されていたりした。コレクションを展示するために特注された漆に螺銅細工の陳列棚など,それ自体エキゾチックで豪華な戸棚の数々には様々な素材の狛犬,人像,根付などが所狭しと並べられ,頭上には華霊を利用したシャンデリアが輝いていた。ガイド書で「極東の装飾美術の美術館」と記述されているエヌリ一美術館は,かつて神域を守り,御仏を荘厳していた品々で満ちているのである。徳川幕府が崩壊した時,幕府や大名の後ろ立てで生きてきた多くの仏教寺院が存亡の危機に立たされた。奈良では興福寺クラスの寺が倒産し,柱の一本まで売り払ったときく。チェルヌスキ美術館で大仏に対面した目黒幡龍寺の住職は,チェルヌスキがパリへ運ばなかったら,東京大空襲で跡形もなかったと大仏の無事を喜んだという。1991年には,ギメが日本で収集し中国仏に分類されていた菩薩像が,法隆寺の三尊仏の脇侍の片方であることが判明してもいる(注43)。19世紀に日本から海を渡った数々の美術品は,クリムトやモローのようにその時点の西洋の芸術家を触発しただけでなく,永遠に失われたかに思われる日本の美術遺産を美術史上に蘇らせる可能性をも秘めている。西洋各地の美術館,博物館に所蔵されている,これらの日本美術が,死蔵に終わることなく,専門家諸氏の今後の研究によって日本の美術史に大きく貢献するようになることを願ってやまない。イー・フォラー「ヨーロッパにおけるシーボルト・コレクション」『シーボルト父子のみた日本』展カタログp.183に引用。林原美術館,江戸東京博物館,大阪国立民族学博物館,1998430
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