鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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割J,(3)と同著pp.58-67参照。(3) (2)のヨーゼフ・クライナーの編著作pp.16-17を参照。(4) マッティー・フォラー「ひとつの日本工芸展一一江戸の工芸ヤン・コック・ブロ(5) (4)の論文p.42参照。(6) 学芸員フォラ一氏によると,ライデン大学日本学科の学生の助けをかり,写真撮(7) 1 -1071のように頭にlをつけた所蔵番号が,父シーボルトのコレクションに由来(8) モローは世界の珍しい文物を図版入りで紹介する雑誌『マガザン・ピトレスク』(9) ウイレム・ファン・グーリック「外交官シーボルト一一幕末とシーボルトの役(1功父シーボルトは1859年に長男アレクサンダーを伴って再来日すると,医者となっこのカタログの全文は補足されて,ヨーゼ、フ・クライナー編著『黄昏のトクガワ・ジャパン』(NHKbooks842, 1998)に転載されている。ンホフコレクションを中心に」『江戸の工芸』展覧会カタログ姫路,日本工妻美術館,1996および(2)の同氏の論文参照。影,入力を行ったもので,素人撮影の手にあまる大きい扉風などに関しては画像データがないものもある。父シーボルトのコレクションでは7点の絵画に画像がなかった。するものである。フォラ一氏によると360-1817〜1823に出島商館長をつとめたド・シュトゥラー,360-1968〜にブロンホフ,360-4185〜にオーベルメール・フイツセルのコレクションが登録されているという。の愛読者であり,興味をひいた図版頁のインデックスをつくっていたが,その中に1855年版の240頁「日本の女神とその子供たち」すなわち,シーボルト・コレクションの絹本彩色画〈弁財天と十二童子〉を大著『日本』で紹介した図を転載したものがある。GeneviとV巴Lacambre‘Gustav巴Moreauet le Japon’Revue de l'Art no.85, 1985を参照。同学芸員フォラー氏からの聞き書き。ていた娘イネとの再会をはたし,鳴滝の蘭法医塾の弟子が奥医師に出世していたこともあって,開国にゆれる幕府の顧問となった。しかし,彼の意見は自国の利益を優先する欧米列強のそれと対立し,かえって幕府を窮地にたたせることになって1861年には顧問を解任され,翌年ヨーロッパに帰国した。(3)と同著p.19参照。なおアレクサンダーが後年,父の再来日の体験をまとめた書物は日本語に訳され-431-

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