され,差別と偏見の助長につながってしまう危険性がある。またより問題なのは,こうしたステレオタイプ化の強化が,サンダー・ギルマン論じるところの死の抽象化を招いていることである。ギルマンはマス・メディアのエイズ表象とは正反対にも見える,健康で美しい身体を使ったエイズ・キャンペーンの公衆衛生ポスターについて論じているのだが,その結果としての死の抽象化という点では両者は同ーのように思われる。彼は以下のように記している。「これらポスターには『事物,人間,時間,欲望にすでに現れているJポスト・モダンな,というよりははっきりポスト・ショアー的な死の観念が欠落している。自我をめぐる不安に対処する適切な方法としての喪を認めない。それは喪を抑圧し,『他者』の死への記憶が表現する自我の死をめぐる不安を殺し去ろうとする」(注11)。ニクソンの被写体は名前を記された個人の肖像写真である。にもかかわらず,すでに見慣れ流布している類型化したエイズ、表象に沿ってしまったために,個人の肖像と見なされるよりは,若い男性向性愛者のそれと認識されやすくなってしまっている。個人の複雑な事情や背景,感情や思いに至るよりも,「若い男性同性愛者の像」として十把ーからげに単純化されてしまうのである。そこでは日常性を喪失してしまう。他者の死を「若い同性愛者」の死として特殊化することで,死を抽象化するのである。本来ならば日常性の中に他者の死をもって自分のそれと感じることで,不安に向き合い死への考察を促すところを,死の抽象化はそうした不安や考察を封殺してしまう。残るのは「自分とは関係ない」「自業自得な」哀れな人々の一群の像であり,展覧会場から出るか,もしくは写真集を閉じた途端に,観る者は平和な日常に胸をなで下ろすことができてしまうのである。第二には他者表象の問題である。それは特に1970年代から80年代,写真表現において重要な問題として浮上し,様々な観点から論じられて現代に至っている。それは例えば,長年男性が創り出した女性像を女性自身の眼から見直し,修正し,解体し,再定義する女性作家たちの試みであり,そして例えば,アメリカの白人に対してのアフリカ系アメリカ人やアジア系アメリカ人などの人種的マイノリテイ,健康対病気,健常者に対しての障害者,若さに対しての老い,クイア理論を背景としたゲイやレズピアンなどセクシュアリテイにおけるマイノリテイ等々,様々な観点から論じられ,豊かな成果を残している。それは端的に言えば,いままで「語られj「描かれるjばかりの側だ、った者たちが,自らの言葉や表象で自ら表現し始めたということである。それは自らの身体やイメージを「他者jに委ねず,自ら回復し創出することであった。34
元のページ ../index.html#45