⑮ 江戸時代中期の公家文化における画家の研究一一近衛家照と「中山花木図jをめぐって一一研究者:彰考館徳川博物館学芸員近藤はじめに江戸時代中期(享保〜宝暦年間)即ち光琳残後から大雅,応、挙,若沖といった画家が華々しく台頭してくるまでの時期は,絵画史において一般的に停滞期とされる。しかしながら,近衛家照(予楽院)をはじめとする公家社会で交流をもった画家たちの活動に注目すると,決して単なる停滞期とはいえず,そこには絵画史的にみても極めて重要な意義,次世代へ受け継ぐべく萌芽を数多く見出すことができる。本報告書では,まず「中山花木図」というこれまで絵画史において殆ど取り上げられることのなかった作品を取り上げる。そしてこの作品を媒介として,近衛家照の動向や絵画観,そして彼をとりまく画家の活動について考察を加える。またそれらの考察を通して,家照を中心とした公家文化圏が,日本のみならず中国や琉球といった対外関係とも大きく関わっていたことを指摘し,更に中国・琉球から薩摩,京都へと流れる一つの「写生画」の流れもみてみたい。そしてそれはまた絵画史において「停滞期」とされるこの時期についての新たなる位置付けの試みでもある。1.木村探元筆「中山花木図jについて昭和62年,河野元昭氏によって木村探元筆「中山花木図Jという写生図の摸本が3点報告された(注1)。一点は折本・一冊(紙本著色・大江玄圃題政・程順則賛),二点目は画巻・一巻(紙本著色・宮崎筒圃題肢・程順則賛),三点目も同じく画巻・一巻(紙本著色・宮崎笥圃題蹴・程順則賛)である。しかしながら,これらは図録の論考中における報告であり,また図版もなく,どのような作品であるか詳細は不明で、あった。木村探元(1679〜1767)は,江戸時代中期の薩摩の画家で,狩野探幽に私淑して上京し,鍛冶橋狩野家に入門,帰郷後は薩摩藩(島津家)の御用絵師として活躍している。中山とは琉球のことで,「中山花木図jという写生図は,琉球の花や木を精般に描写した作品であり,その原本は,琉球の儒学者である程順則が慶賀使として正徳4年(1714)に薩摩に来訪した際にその写生図に賛を寄せたものであるとされている。ここでは,今回新たに調査を行った以下の作品について,未紹介の資料である西尾壮439
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