第l図は「悌桑花」である。第2図は「三段花」,第3図は「玉響花j,第4図は「千年草j,第5図は「名護蘭」,第6図は「風蘭j,第7図は「龍眼樹」,第8図は「来有花」,第9図は「美人蕉J,第10図は「恵美祢J,第11図は「黄蘭j,第12図は「椿」,第13図は「都具j,第14図は「木瓜」,第15図は「格」で終わる。この作品は画巻形式となっており,「紙本」ではなく「絹本jに描かれている。また,賛をはじめ題や肢は一切なく,記されているのは,描かれている「花」ゃ「木」の名称のみである。また巻頭「悌桑花」の画面右上に朱文長方印「梅華報春口」が確認できる。この印は,〈岩瀬文庫本〉冒頭の目録に書き写されている。そして賛がないこと,絹本であること,「悌桑花jからはじまること,これらすべて〔図2-2〕に記された目次に合致する。また巻末に三印「梅下隠士」(朱文長方印),「一号李謄J(白文方印)「薩陽書画禅」(白文方印)が確認できる。これらは探元が用いていた印である。これらの印も同じく目次に書き写されていることが確認できる。このように見てくると,この探元の〈無賛本〉「中山花木図jは〈岩瀬文庫本〉に記された目次の条件全てに合致すること,非常に丁寧に細密描写がなされていること,また紙本ではなく絹本に描かれていることから,近衛家に所蔵されていたものであり,そしてそれは近衛家からの特別注文であったという可能性が非常に高いといえる。探元は二つの系統の「中山花木図J,即ち〈程順則着賛本〉と〈無賛本〉の二本は確実に制作していたのである。これまで見てきたように,幾つかの図の出入りはあるものの,取り上げるモチーフはほぼ同じである。どちらが先に制作されたのか,ということについては,即断はできないが,恐らく正徳4年の年紀をもっ〈程順則着賛本〉が先にあって,その後,近衛家からの特別注文によって〈無賛本〉が制作されたのではないかと思われる。では,当時の日本では大変珍しい琉球の花や木だけを絵巻物に仕立てた近衛家旧蔵の〈無賛本〉の注文主,或いは享受者はどのような人物であったのであろうか。ここで興味深い資料がある。〔資料5〕は近衛家照の言行を彼の侍医・山科道安が記録した『塊記』の享保9年(1724)10月23日の記事である。これは,家照が東本願寺第十六世の深諦院を招いて茶会を催したときの記事で,同伴したという侍医の山科道安は,茶会に出されたものを詳細に書き留めている。中でも注目できるのは最終行の次のような一文である。442
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