鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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「此間ニ,琉球ノ物産生写ノ絵巻物拝見ス」林進氏はこの記事の中にある「絵巻物」の制作者について,具体的な作品は掲げておられないものの,琉球の画家・山口宗季そのひと以外にはまず考えられない,とされている(注5)。しかしながら,次のような理由から,この享保9年10月23日の茶会で披露された絵巻は,現在杏雨書屋に所蔵されているもの,つまりこれまでみてきた探元の〈無賛本〉であると思われる。その理由は,まず第一に内容および形態が合致すること,つまり細密描写による琉球の物産を描き,絵巻物に仕立てているということ,第二にこの〈無賛本〉は近衛家に所蔵されていたということ,第三に,〈無賛本〉は紙本ではなく絹本に賛沢に描かれた絵巻であり,有力な人物による特別注文であると想定されること,などである。この茶会に招かれた東本願寺第十六世の深諦院は『塊記』にも度々登場し,家照との交遊関係においても,非常に親しい人物の一人にあげられる。このように家照は,ごく親しい友人を招いての茶会の席で,琉球の物産を生き写しのように描いたという絵巻,即ち「中山花木図jを披露しているのである。このことからやはり〈無賛本〉を所持していた人物,注文主は近衛家照であったと想定される。また『塊記』の享保12年(1727)12月16日の記事には,探元が絵を描き,程順則が賛を寄せているという作品も見られる。これも同じく茶会の席で掛けられた作品である。「掛物,薩州探元絵ニ程順則ガ讃jとあり,掛幅であったようであるが,このように「探元が絵,程順則が讃」という組み合わせの作品は他にも存在していたことが確認\できる。2.琉球の画家・山口宗季とその師・孫億について「琉球の花や木を描いたものj,即ち「中山花木図」と家照の関係はこのように線で結ぼれた。では,更に「琉球」そのものと家照との関係はどのようなものであったのであろうか。ここで想起されるのが,琉球の山口宗季(中国名・呉師慶/1672〜1743)という画家の存在である。山口宗季は,琉球に生まれ,琉球王朝に仕え,元禄・宝永年間に国費留学生(この固とは琉球国のこと)として中国,福建省の福州に留学し,写生的花鳥画家・孫億(1638〜?)に四年間師事した画家である。当時の日本は鎖国体制下で,外国船の貿易の港は長崎に限られていたが,琉球はもともと独立国でもあり,例外的に中国に渡航することが許されていた。しかしながら-443-

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