慶長年間の島津氏による琉球侵入の後,琉球は薩摩藩の支配下となり,いわば薩摩藩の附属国であったのである。このことに関しては後ほど触れたい。この山口宗季と近衛家!昭との関係は林進氏によって既に指摘されている(注6)。それによると,正徳5年(1715)の春に,家照は琉球の御取次役人(薩摩藩の琉球担当の役人)を通じて,宗季に花鳥画の依頼をしている,というのである。家照と琉球との関係は,林氏の研究でも指摘されているように,正徳4年(1714)に慶賀使節として,琉球から与那城(よなぐす)王子をはじめ,程順則,作家である玉城朝薫(たまぐすちょうくん)などが江戸に上っている。薩摩から江戸へは薩摩藩の藩主である島津吉貴が同行している。この島津吉貴は,家照と親戚関係にあり,江戸で公務を終えた慶賀使節一行は帰りに近江の草津に泊まっている。そしてこのとき家照は,わざわざ京都から草津まで駆けつけているのである。つまりこのとき,探元の「中山花木図」に賛を寄せた人物・程順則と家照は面会しているのである。この翌年に家照はさきに触れた山口宗季に花鳥画の制作を依頼していることから,家照は程順則をはじめとする琉球の人々に会って感化されたということは容易に想像できる。さらに康照58年/享保4年(1719)に,宗季は再び「琉球の御取次役人Jから画の依頼を受けていることが確認できる(注7)。ここで興味深いのは,絵の注文は「唐絵」ではなく「琉球絵Jというもの,そして三幅の「花木図」というのである。その三つの花木図とは,横幅の「悌桑花」と,同じく横幅の「鶏頭赤花J,そして竪幅の「デイゴJ(梯梧)というのである。これらはいずれも本土では殆どみることができない琉球の花や木であり,「悌桑花」「梯梧」は,さきにみた「中山花木図」にも登場する花木である。この花木図の依頼主は,不明であるが,薩摩藩の琉球取次役人からの注文であることから,島津家からの依頼ではないことは確かであり,近衛家からの注文である可能性も考えられる。ここで,山口宗季とその師・孫億の現存作品について触れたい。〔図4〕は山口宗季が中国の福州に留学中のときに描いた「花鳥図Jである。画面中央下に太湖石を配し,四方に向かつて,紅白の牡丹,花柘棺,海業,蘭,菊などが咲き乱れ,二羽の香いの鳥が呼応するように枝に止まっている。落款には「乙酉季春写於間山曙楼/呉師慶」〔図印章が捺されている。「乙酉」とは康照44年,即ち宝永2年(1705)にあたり,中国留学中に描かれたものであることがわかる。また〔図5〕は宗季の師である孫億の「花4 1〕とあり,「雲谷」(朱丈長方印)「呉師慶印」(朱文方印)「子敬J(白文方印)の444
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