鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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3.公家文化圏にみる対外関係〜京都,薩摩,そして琉球〜鳥図」である。孫億は中国福州画壇の職業画家で,細密描写による花鳥画を得意とし,中国院体花鳥画の伝統を受け継いだものとして位置付けられている。画面には鮮やかな藍色の太湖石を画面下に配し,その周りには紫陽花や海業などの草花,そして四羽の鳥が描かれている。落款に記されている「康照壬申」とは康照52年,即ち正徳4年(1712)にあたる。この孫億の画風については,木村探元の『三暁庵雑志』中に記録された,家照が御用の絵を見て語ったという「おわへ取り様なる絵にて,孫億位にて可有之候」という言葉が想起される。「おわへ取り様なる絵J即ち,追いかけてつかまえたくなるような絵,生き写しのような絵が,孫憶の画風と同様なものであるという家照の解釈が窺える。このことから家照は孫億の作品を既に知っているばかりか親しみをもって接している様子さえ看取できるのではないだろうか。これまでみてきたように,「中山花木図jを媒介として家照の絵画観や動向を探ることによって,中国(福州)から琉球,薩摩(島津家),そして京都(近衛家)という一つの流れが見えてくる。大井ミノブ氏によると,近世初頭より近衛家と島津家は親しく交流することによって,薩摩藩は京都の近衛家から中央の情報をいち早く入手し,それによって政治的にも学問的にも,地方でありながら,藩として大きく発展を遂げたとされている(注8)。また近衛家にとっては,琉球を附属国として持つ薩摩藩を介して,琉球および中国の最新の情報を入手できたようである。さきに触れたように琉球は例外的に中国との交易を認められており,薩摩藩,琉球経由での中国情報入手は,近衛家にとっても好都合であったといえる。もっとも当時としては,日本は鎖国体制下であり,貿易船は長崎に限られていた。この長崎を通して江戸時代に輸入された書籍については,大庭惰氏による詳細な研究が報告されている(注9)。しかし大庭氏は,著作の冒頭で研究の前提として次のように注意書きをされている。「ただ,薩摩藩が琉球貿易を幕府から公認されており,これが半ば公然たる密輸ルートになっていたが,このルートから多少の書籍が入ってきていたと推定できる。」さらに同氏は幾つかのその疑いのある書物を指摘されているが,可能性以上の何事も言えないため正規の長崎入荷分に限って研究する旨を記している。やはり書籍についても中国から琉球,薩摩藩経由で日本に入ってきているのである。恐らく家照も書-445-

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