図Jなる写生的な作品を制作できたのではないだろうか。籍をはじめとする数多くの最新の中国情報を入手していたのではないか,と推定できる。それはまた,林氏も指摘されているように,沈南藁の長崎来日より以前に,山口宗季,孫億といった同時代の画家の作品が琉球経由で中国からいち早く入って来ていたのである。近衛家の売立目録にも孫億の作品がみられることなどからも(注10),近衛家では,同時代の,最新の中国の花鳥画を,長崎を通さずに入手していたと考えられる。またこのような背景があったからこそ,狩野派でありながら探元は「中山花木ここに興味深い史料がある〔資料6〕。これは近年初めて翻刻された史料,木村探元の『京都日記』の記事である。この日記は,探元が享保19年(1734)から翌年にかけて,近衛家に招かれて上京した時に記されたものである。ここに載せた記事は,享保20年(1735)閏3月24日の条である。ここでは,近衛家の別邸で,家照と探元,そして家照の側近として仕えた画家・渡辺始興の三人が様々な絵を前にして問答している様子が細かく描写されている。まず,家照の琉球に関する情報や考え方を知る上で次のような興味深い記事がある。「琉球国にはなんと在か。絵かーよいか。呉師虞と申者孫億弟子に而出し者に而御座候由申上候処,成程関白の方へある見た。孫億か様に見ゆる。朝鮮国は絵も字も琉球ほとない。琉球は学文もとかし能風雅な国じゃ。段々学者も出来たであろふ。」(注11)つまりここで家照は琉球を「風雅な国」と規定し,その文化を非常に高く評価しているのである。これは喜舎場一隆氏の研究にもあるように(注12),島津家(薩摩藩)が琉球を附属国として見下していた立場とは実に対照的である。また,家照は既に孫億の作品も知っていることが確認できる。さらに日記の後半部では,雪舟の芦雁図を前に,始興は,芦の書き方について,気ままの筆勢ではあるけれども,よく芦に似せて描いていると語っている。その言葉を受けて家照は,狩野派の画家である探元を気遣いながらも「今の絵は絵て絵を書く。古人は生て絵をかいた。jと語っている。つまり今の画家は絵(粉本)から絵を描いているが,昔の画家は生(実際のもの)から絵を描いている,と語っているのである。常信の絵本(粉本)を前にしてのこの言葉は,源豊宗氏が語った「享保年間の前後は日本美術史の一つのスランプ期であったJ(注目)という言葉を借りるまでもなく,家照は同時代の国内の画壇の様子を「冬の時代Jとして認識していたのである。この「冬の時代」にあっても家照は,琉球に注目し,高く評価しているのである。三人が絵について語り明かした翌年,家照は画壇の春の到-446
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