来を見届けぬまま亡くなる。しかし家照の側近として仕えた渡辺始興から後の画壇に華々しく登場する円山応挙への流れを考えると,そこには探元の「中山花木図Jに象徴されるような,中国から琉球,薩摩そして京都へと流れる一つの「写生図jの流れも確かに存在していたことが確認できる。これまで円山応挙や応挙と同時代の京都画壇の画家たちに関する中国絵画からの影響について,漠然と長崎経由の沈南頚からの影響といわれてきた。確かに,沈南頚が日本の画壇に影響をもたらしたことは事実である。しかしながら,応挙に関していえば,その言説においてしばしば長崎経由での沈南頭の画風を摂取したといわれているが,これまで直接的な影響が裏づけられる具体的な作品は殆どあげられていない。即断はできないが,京都における公家社会を考えるならば,むしろ琉球経由で孫億などの中国画へ接近したとみたほうが自然なのではないだろうか。最後に,近衛家照と探元筆「中山花木図」を通して,京都と薩摩そして琉球の三つの異なる地域との対外関係とその背後にみえること,そしてそこから考えられることを述べてみたい。まず一点目は近衛家照をはじめ京都の公家や学者たちは,琉球について非常な関心を示しており,学問をはじめ文化的にも高く評価しているということである。それは,探元の『京都日記Jや数点の「中山花木図」の摸本に記された政文の記述からも窺える。「中山花木図」の摸本が数多く制作され,儒学者たちがこぞって題や政文を記しているのは,やはり博物学的興味と「中山花木図」の原本に題蹴を記した琉球の儒学者・程順則への憧れが大きく与かっているものと思われる。また江戸時代に刊行された本について何度も「琉球ブーム」が起こっているということが,横山皐氏から指摘されている(注14)。横山氏の研究によると,琉球物といわれる書物の流行は,琉球の慶賀使節の来る年度に集中しているというのである。これは薩摩と琉球の関係において,紙屋敦之氏の論考(注15)や喜舎場氏の著作(注16)にあるように,極めて政治的な意図が働いているのである。つまり,琉球を附属国としてもつ薩摩藩の島津氏は,琉球の慶賀使節を江戸に送る際に琉球の人に徹底して異国風の格好をさせ,殊更に華々しい行列をさせているのである。それは琉球を朝鮮に匹敵するほどの大国にみせる意図のもと,島津氏が幕府に対しである種の特権を要請するためで,またそれによって他の藩との優位性を高めるためでもあったのである。琉球物といわれる書物の流行もその前宣伝として島津氏の政治的な意図が働いているとのことが横山氏によって指摘-447-
元のページ ../index.html#458