鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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注(2) 本報告執筆中に,他に海洋博覧会記念公園管理財団(那覇市)所蔵の「中山花木(1) 河野元昭「探元と江戸狩野」(図録『木村探元展一近世薩摩画壇の隆盛一』鹿児島されている。〔資料l〕の〈杏雨書屋A本〉〈杏雨書屋B本〉および〈岩瀬文庫本〉の制作時期は,折しも琉球の慶賀使節のくる年と重なる時期であり,いわば琉球ブームに乗ったものとも考えられる。一方京都の近衛家では,さきにも触れたように,琉球の文化・学問に非常な関心を示し,山口宗季をはじめとする琉球の絵画や琉球漆器を島津家を通して手に入れたり,またさらに孫億などの同時代の中国の絵画や最新の書物などを,中国から琉球,琉球から薩摩,薩摩から京都という密輸ルートで,入手していたと考えられる。公家である近衛家がもともと武将である島津氏と江戸初期から親密な仲になったことは,この密輸ルートの確保という近衛家の政治力も一面では働いているものとも考えられる。また薩摩の島津氏としても近衛家と親しくすることによって,中央での情報がダイレクトにいち早く入手できるという利点があったと思われる。筆まめな木村探元が薩摩藩から数ヵ月近衛家に派遣され,詳細に日記を記しているということも島津氏の中央の情報入手という意図が一面では関与していたと考えられるのではないだろうか。おわりにこれまで絵画史において殆ど語られることのなかった「中山花木図」を通して,家照を中心とする公家社会をみてみると,そこには中国から琉球,薩摩,そして京都へと流れる一つの「写生画」の源流がみえてくる。「生ウツシノJ絵は,家照の側近として仕えた渡辺始興から,やがて京都画壇に華々しく登場する円山応挙へと確実に受け継がれていったのである。それはまた家照から応挙のパトロンであった円満院門主祐常や妙法院真仁法親王へと受け継がれていく公家社会の軌跡でもある。今後は,本報告書において提示された様々な問題点を整理し,詳細に点検することによって,江戸中期の公家社会における画家の活動,ひいては近衛家照をめぐる画家たちの制作活動の実態を明らかにしていきたい。市立美術館)昭和62年図」(紙本著色・一巻)〈程順則着賛本系統〉があることを確認した。この作品448

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