鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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6)。稿者は,この玄々堂出品作こそが石版による天皇肖像画の曙矢であると考える。時期において,貴顕あるいは美人という主題がブームと深く関わっている可能性がある。紙幅も限られているため,ここでは貴顕主題の石版画を取り上げて流行との関連を検証する。今回作成したデータベースからまずは貴顕主題の石版画を抽出してみる。「ジャンル」の部分に「貴顕」と入力し,検索をかけると31件がヒットした〔表3〕。これらを年代順にソートすると,前述のように明治14年に出版されたものが6件ととびぬけて多く,しかもそれらはみな肖像画形式で描かれている。実に検索された31件中の貴顕主題石版のうち,25件が肖像形式の作品なのである。これら貴顕主題の肖像画の典型的なパターンは,中央に明治天皇と皇后,天皇の母である英照皇太后と場合によっては皇太子(大正天皇)が描かれ,その周囲に小さく皇族や参議,大臣らが配されるというものである〔図l〕。描かれる人物の組み合わせには様々なバリエーションがあり,天皇・皇后のそれぞれの単独像から,20人近くが描かれるものまであるが,明治20年代に入ると政府高官は描かれることが少なくなる。そしてすべての作品において天皇・皇后・皇太后がそれと名指しされることはなく,いずれも「高貴肖像JI貴顕肖像jなどといったタイトルが付される。この主題をデータベースと資料で制作年代順に追ったところ,明治14年の作品点数の突然の増加に貴顕肖像画が深く関与していることがわかった。この年の3月1日かの老舗版元である玄々堂が肖像画を出品している(注5)。この作品の存在はまだ確認されていないが,新聞報道によれば中央に天皇・皇后を,周囲に大臣や参議,各省の卿輔たちをそれぞれ楕円の中に描き,配したいわゆる貴顕肖像画であったという(注『出版書目月報』によれば,明治14年の石版画出版届出数61点に対し貴顕を扱ったものは実に約半数の31点を占め,うち肖像画ではない1点を除くすべてが4月以降の届出となっている。また翌日年は,貴顕関係の作品は4月までの記録のみでも総数122点のうちの41点を占めている。明治14年3月以前の肖像画は管見の範囲では確認できないことを考えると,玄々堂から天皇の石版肖像画が始まったと考えられよう。楕円形の中に肖像を描くというスタイルは多くの作品に共通しているが,これも玄々堂版の形式が以後の同主題作品のひな型となったことを示唆している。これら玄々堂版をはじめとする貴顕肖像群は,天皇の肖像画の歴史では内田九ーによる肖像写真とキヨッら6月30日まで,上野公園で第二囲内国勧業博覧会が開催されているが,ここに石版-463-

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