パーグのそれは写真も余白に書かれた言葉も取材した文章も全て含めて一つの作品であり,その上で彼はそれをフィクションであると呈示するのである。ダグラス・クリンプはニクソンの写真について以下のように疑問を投げかけている。「はたしてこの信頼関係は親密さの賜物ということなのだろうか,それとも,被写体がしだいに自己を放棄したということなのだろうか」(注18)。非常に似た主題と手法を使いながら,ゴールドパーグの作品が親密さの賜物に見え,ニクソンのそれはしだいに自己を放棄した結果に見えるのである。それはニクソンの作品が,インタピ、ユーを除けば,被写体の全人格を捉えようとしたものではなく,あくまでも「エイズ患者jの肖像をテーマにしたからだろう。ニクソンがあくまで,「エイズ患者Jである被写体をテーマにしていることは,多用されるクローズアップにも現れている。ニューヨーク近代美術館に展示されたトム・モランの写真はすべて室内で写され,12点のうち1点は母親と頬を寄せる顔のクローズ・アップで,もうl点の肖像にも母親らしき人物が彼の肩と頭に手を置いている。残る10点はすべて彼一人で,多くは胸から上のクローズ・アップ,裸体が5点含まれ,ベッドに臥した場面も3点ある。特に図録の最後に掲載された「トム・モラン,1988年2月jと題する写真は,ベッドに横たわる彼の顔のクローズアップで,やせ衰えた生気のない肌に剃り残された髭がまばらで,乾いた唇には薬だろうか白い粉の跡が残り,半分聞いた空ろな目がいかにも痛々しい。こうした肖像群からは,エイズに,寵った患者の状態は伝わっても,トム・モランという人の人間像は浮かび上がらない。エイズという病気があたかも彼の全人格を支配しているかのようである。しかし一人の人間が「エイズ患者Jに還元されることは可能だろうか。5 まとめニクソンの写真の問題が鮮明にしたのは,80年代,90年代に,写真や美術において提起された問題と共通している。すなわち,誰が誰を何のために誰に対していかに表象するかということ,他者表象の問題である。ニコラス・ニクソンがここで突き付けられたのは,彼の写真そのものについてだけではなく,写真家の立場や自分のアイデンテイテイ,その写真がどのように社会の中で機能するか,ジェン・チタ・グルーパーの言葉を借りれば,「ニクソンの表象の正確さや公正さ,コミュニティにとって部外者である写真家がエイズと生きる人々を表象することの正当性」(注19)への挑戦であっ-37-
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