正木美術館蔵〔図2〕481 ⑮ 「菖里集九周辺の画事についてJ美濃の画人如寄一一15世紀末から16世紀前半の日中文化交流の一例一一研究者:財団法人正木美術館学芸部長高橋範子1.はじめに応仁の大乱を機に,京五山を離れた高里集九(1428〜?)。40歳を迎えていた彼は,そのとき還俗の道を選んだ。そして,そののち約40年間の後半生を,美濃の地で,一還俗僧として,自らの学芸の才を頼りに生きぬいたO高里は,『梅花無尽蔵Jと題したl冊の詩文集を遣した。そこには,美濃の地の還俗僧寓里を求めた文雅の時と場が再現される。そうした遺稿を寓里は,自らの手で編年し,編集した。そのことは,同時代の詩文集が,作者の没後にその弟子達によって編まれたこととは事情が違う。『梅花無尽蔵』にみる高里の詩作の軌跡は,そのまま彼の履歴となる。そこに記された詩は,高里が関わった風雅の現場を具体的に再現するものとなる。本稿が明らかにする室町後期の画人如寄もまた,高里が遣した『梅花無尽蔵』が証言する美濃の寓呈集九周辺の絵描きである。本稿は,その知寄の入明をとおして,美濃の地が,また高里集九その人がかの地の寧波文化圏と具体的に結びついてゆく,15世紀末から16世紀前半期の日中文化交流のー側面を明らかにするものである。2.如寄という画家如寄の画歴の具体的な方向性を指し示す,2点の遺作が伝わる。次の図である。それは,如寄の履歴の輪郭を興味深く浮き彫りにした(注1)。・「柿本人麻呂図」如寄筆寓里集九賛正木美術館蔵〔図l〕・「柿本人麻呂図j如寄筆倉伸和賛共に歌聖柿本人麻呂を描く。ほぼ同ーの人麻日図像が指し示される。〔図l〕は,柔軟な筆跡と衣を彩色する淡い水色が特徴的な,優美な図像。また,〔図2〕では筆線の質に変化があり,やや硬質な図像となっている。〔図l〕は,如寄が美濃の高里集九周辺の画家であったという履歴を明らかにした。〔図l〕に高里が寄せた画賛が,『梅花無尽蔵jにそのまま収まる。「人丸画像賛」と表題される。そこに小さく注記された「岸日向守,之を需む」の記述。それが,如寄
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