3.如寄の入明の履歴の一端を明らかにした。岸日向守は,美濃の地の,文雅をこよなく愛した武人であった。雅号を弾月翁という。翁の斎居「泰枕斎」における歌会の床掛けの軸に,〔図l〕もなった。弾月翁は,如寄の絵筆を求めた。そして,その図上に高里の詩を求めた。時期を確認すれば,高里が美濃に下向しまもなくの1470年前後のこと。淡く柔軟な絵筆が,やさしく可憐な人麻呂の世界を創りだした。画家は落款をなさず,「知忠j「如寄」と小さな朱印を2頼捺した。寓里の書風と,画風の初々しさから,如寄の初期作品と位置づけられる。その如寄が,「樗屋一翁如寄筆Jとねばり強く力のこもった筆で落款をなした。〔図2〕である。共に捺される「樗屋J「如寄」「楳月軒」の3頼の印章も,〔図1〕と異なり,大きくその存在を誇示する。そして,図上には,中国寧波の著名な丈入信仲和の賛詩だ。流麗な草書が確認される。わが入明団とかの丈人の接触は,永正8年(1511)の了庵桂悟を正使とした一回のみとされる(注2)。〔図2〕の如寄が描く「柿本人麻呂図Jは,この時期,かの地にもたらされ,魯仲和の眼に触れ,著賛の機を得た。〔図l〕と〔図2〕の聞には,約40年の隔たりがある。両図にみる作風の変化は,単に時間的な経緯によるものではないだろう。画家の履歴におよぼされた何を,私たちは指摘することができるのだろうか。如寄の履歴に記されるべきものOそれはまず,彼の明国への渡海である。知寄が入明経験を持つ画人であった史実は,既に次の遺作によって,提示されている(注3) 0 ・「日東の如寄の帰国を送るの序j厳端筆如寄が,かの地の丈人厳端に求めた送別の詩軸である。厳端は,寧波の文人結社高年杜に属した人物。進士及第者で,当時,当地で名の知られた文人であった。「大明の弘治丙辰(9年.1496) Jの年記がある。「夏6月Jに人を介して頼まれた如寄の送別序を,厳端はその年「冬10月」に書した。文中には「日東の口次郎,号は如寄Jと記され,如寄の俗称口次郎を証す。軸は,愛知県常滑に伝来した。如寄は入明経験をもっ画人であったのだ。如寄の入明は,時期の上で考察すれば,明応4年(明の弘治8年・1495)度の入明使節団であったことが考えられる。この使節団の使臣だ、った佐々木永春の動向の一端が,具体的に伝わる(注4)。永春は,日向国安国寺の桂庵玄樹(1427〜1508)に贈ら愛知・個人蔵〔図3〕482
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