鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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れた送別の詩を携え,海を渡った。入明したその年のうちに,その桂庵の詩に,寧波の文人12人の和韻詩と厳端の序を得た。如寄もまた,この厳端に送別詩を得たのだ。永春は翌年には,桂庵の文集『島隠集jに洪常の序文を求めた。洪常もまた,厳端と同じく高年社に属し,わが入明団と親しく交わった寧波の代表的な文人であった。翌明応6年(1497)2月に帰国。永春のこの記録に,如寄の動向が重なる。如寄もまた,寧波の文人たちと親しく交わった。人を介して厳端に自らの送別序を依頼し,そこに「生まれて資質j軍撲,学を好んで倦まず,もっとも絵事を善くし,雅にして吟味を好み,」と読まれるように,その絵筆によって寧波の地で文人たちとの風雅の時と場を得た。4.如寄の遺作・「花鳥図」双幅如寄筆・「花鳥図」・「花鳥図」・「西湖図j・「達磨図・模本」如寄筆雲屋思胤賛東京国立博物館蔵〔図8〕入明の前後を問わず,如寄には中国絵画への関心があった。そのことを,彼の遺作は具体的に証明する。〔図4,図5〕の「花鳥図」には,知寄の朴前で勤勉な中国画学習の跡を指し示している。〔図4〕は「如寄jの印のほかに「詩画一律」といった雅印を捺し,この双幅の清酒な遺作には先述の岸日向守の歌会に求められた「柿本人麻呂図jと共に,美濃の地の,雅ぴの風流が窺い知られる。また,〔図5〕には,了庵桂惜の画賛が添い,如寄の入明と画歴に影響のあった人脈が浮かび上がる。そうした〔図4'5〕に比べ,〔図6〕の「花鳥図」には,如寄の絵筆とそれが創り出す作風に輝きと透明な洗練さが加わる。その因は,何に求められるべきか。そして,〔図7〕の「西湖図」は明らかに,かの地における知寄の画家としての成果を指し示す。それは,現存の石川県立美術館蔵品の「西湖図」との関わりの中で,説明されよう。かつて雪舟その人の筆とされていた石川県美本「西湖図Jは,近年では弟子の秋月等観の作とされる。石川県美本には「杭州西湖之図」と墨書があり,「口北京会同館,此図を作す。弘治玖年(9年・1496)閏3月13日Jと年記がある。秋月は他に,この入明に際し,青震なる名士に自らが雪舟から授かった「雪舟自画像」を託し,賛を求めている(藤田美術館蔵「付与秋月雪舟自画像」)。そこに記される年記が,如寄筆了庵桂悟賛東京国立博物館蔵〔図5〕如寄筆如寄筆正木美術館蔵〔図4〕アメリカ・ロックフエラー財団蔵〔図6〕兵庫・天寧寺蔵〔図7〕483

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