鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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同年3月28日。秋月の入明期と如寄のそれが重なる。彼らはこの時期に,共に明固にあり,「西湖図」を学ぶ機を得た。秋月と如寄の入明は,かの地でいかなる接点を持ったか。究明すべき関心事となる。〔図7〕に如寄は,「大明遊子樗屋如寄寓」と落款を記す。ここには,〔図4,図5〕が印章だけであったことに対し,入明の成果を高らかに宣言するかのような落款が揮去されることとなる。〔図6〕の「花鳥図」には「大明静子樗屋如寄寓Jの落款。また,後述の「渡唐天神図j〔図9〕には「大明遊子樗屋如寄居士寓」の落款。〔図6〕は,落款と共に画家の入明の成果をその画風に反映させ,また,〔図9〕は落款の「居士Jに,他の作品群とは別の制作時期を暗示する。画賛を寄せる策彦周良の名は,〔図9〕を如寄の晩年の作かと予想、させる。そして,「達磨図」〔図8〕。狩野派の模本として今に伝わり,『古画備考』にも存在が記録されている。図には「弘治丙辰年(9年.1496) 6月26日jの年記があり,かの地の雲屋思胤なる人物の賛をその時,もらっている。時期はちょうど,〔図3〕の送別詩序を人に託した「夏6月jと接近する。如寄その人と如寄画の,寧波文人集団との交流の時期がここに1つ,具体的に確認される。5.知寄と雪舟ところで,「文明13年(1481)秋」に美濃の寓里周辺におこった一つの出来事に,如寄の入明の背景を重ねることは荒唐無稽な予測ではない。その時,雪舟が美濃にやってきた。寓里は雪舟との「避遁」を,『梅花無尽蔵』に記す。土地の禅剃正法寺で,雪舟は高里の為に「金山寺図」を描いた。雪舟の「東遊jの一地点に美濃はあった。高里を通じ,如寄が雪舟との初めての接点を得た可能性は極めて高い。そのことを,〔図2〕に考察したことがある(注5)。〔図2〕の柿本人麻呂の画像は,雪舟の高弟として名高い宗測の遺作「柿本人麻日図J(山梨県立美術館蔵)の筆法や描写と共通し,〔図l〕と〔図2〕の聞に如寄が雪舟門下として画業を修練した可能性を指摘し得た。また,次の遺作も,〔図2〕と同様に,如寄の雪舟門下への参画の可能性を証明する0・「渡唐天神図j如寄筆策彦周良賛本図もまた,宗測の遺作(狩野派模本・宗淵筆「j度唐天神図」東京国立博物館蔵)と同一の図像を示す。こうした如寄画と宗湖面の共通項に,私たちは両者の雪舟門下の証を認めてよいのではないか。如寄は遺作に,具体的に雪舟門下としての画業を確出光美術館蔵〔図9〕484

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