A斗A認させる。如寄と雪舟の出会いは,「文明13年秋jの美濃にあったろう。先に筆者は,如寄の入明を明応4年(1495)度の使節団と予測した。そして,如寄の動向に,同船の佐々木永春のそれを重ねた。永春には,入明を相談した人物がいた。その人物は,永春に自らの詩や文集をかの地へと持たせた。その人物,桂庵玄樹。彼こそ,かつて雪舟と同船し入明し,雪舟の「琴高列子図」に賛をなし(『島隠漁唱J文明12年・1480の条),雪舟の弟子秋月や等悦の事跡を親しく記し遣す人物である。雪舟一桂庵玄樹の関係は,桂庵玄樹永春の関係へと派生し,そして,永春と如寄の同使節団の可能性は如寄と雪舟の美濃での接点を再び想起させる。如寄の入明の契機に,雪舟その人の存在が見え隠れする。如寄の雪舟門下への参画は,美濃の一画人如寄の画歴に飛躍的な展開をもたらしたことが考えられる。その桂庵玄樹は帰国後,島津氏の庇護をうけ鹿児島に居住した。桂庵が『島陰漁唱』に記録する雪舟の弟子秋月は,もと島津の家臣。秋月は,先述のように,如寄とほぼ同時期に中国にいたことが確認される。この時期,雪舟をめぐり,また桂庵玄樹をめぐり,雪舟の弟子たちの入明の状況が明確に浮かび上がってくる。6.「美濃文化圏」と「寧波文化圏」如寄が明応4年度の使節として共に渡海した佐々木永春は,そののち永正6年(正徳4年・1509)度の使節団で再び入明し,翌年に帰国の途についている。「送源永春還国詩画巻」はそのことを知らしめる(注6)。永春が帰国に際し,寧波の文人14名による送別の序,詩,肢と王誇の送別図を得た一巻である。そこには,永春が先の入明で桂庵玄樹の和韻詩を得た方震(友梅)の名はそこに無い。かわって,その息子方士(梅犀)が抜丈を寄せる。「正徳5年(1510)6月9日」の年記がある。日本の使節団は,親しく方氏の父子と交わった。父子は,わが禅林文化圏に知られる寧波の著名な文人であった。その息子方梅庄が,寓里集九の詩を一幅の画軸に揮主主した。しかも,あの如寄が描いた〔図1〕に高里が寄せた画賛,すなわち岸日向守に求められたあの詩がそのままに記される。圃「柿本人麻呂図」方梅厘賛近年,公になった作品だ。わが歌聖柿本人麻呂の詩作の姿が,描きおこされている。寧波の文人方梅庄は,図上に自らが揮事した詩が,高里集九の詩であることを記して冷泉家時雨亭文庫蔵〔図10〕
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