鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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9〕の如寄画と策彦周良の画賛の組み合わせは,何を教えるものなのか。鴛伸和とわいる。そして,「明国の正徳8年(1513)の春,梅庄が書す」と明記する。絹本に着色の入念に描かれたー幅の「柿本人麻日図」が,わが入明団の一員によってかの地の寧波にもたらされたのだ。そして,その図上に方梅庄の書を求めた。揮去の詩は決まっていた。あの寓里の詩だ。おそらくその場で,梅庄に詩の作者高里集九の紹介があった。美濃の還俗僧高里集九は,そこでわが日本の誇るべき文人として語られた。寓里を梅厘に語り,本図を梅庄のもとに持参した人物,その焦点は美濃の寓里周辺に絞られよう。〔図8〕を時期の上で確認すれば,それは永正8年(正徳6年・1511)の了庵桂悟を正使とした一回によって寧波にもたらされた図と考えられる。この確認は,興味深い展開を私たちにもたらす。〔図2〕の如寄が描いた「柿本人麻呂図Jもまた,この永正8年度の入明使節団によってかの地にもたらされ,倉伸和の画賛を得ているのだ。ここに確かに寧波にもたらされたことが確認される,方梅庄が揮主きした寓里集九の詩がある「柿本人麻日図」〔図10〕と倉仲和の賛を得た如寄の「柿本人麻呂図」〔図2〕。この2点の遺作は,「寧波文化圏」と「美濃文化圏」を直に結びつけることとなる。先の,佐々木永春の再度の入明が示唆するように,如寄の2度目の入明をここに想定すべきか。〔図6〕の洗練された画風の因は,このあたりにあるのか。また,正使了庵桂悟の名は,〔図5〕の如寄画と了庵の画賛の関係を再び検討させる。加えて,〔図が使節団との接触は永正8年度のみと限定されるが,方梅庄とわが国の関係はこののち,策彦周良が果たす天正年間の入明記録や京都妙智院に伝わる「策彦周良帰朝図」に確認されるように,親密に継続した。〔図9〕が指し示す如寄画と策彦周良の接点は,如寄画がわが画として入明使節団を通じ,長期にわたり「寧波文化圏」と接触した史実を裏付けるものとなろう。そして,〔図9〕は「渡唐天神」という画題であることによって注目される。「中国に渡った天神さまJ,15世紀半ばにわが禅林において創り上げられた渡唐天神の説話は,その題意において日中を親しく結びつけた。「柿本人麻呂図」ゃ「渡唐天神図」は,禅僧たちを主としたわが使節団にとって,寧波の文人たちと接点をもち,文雅の時と場を共有する絶好の画題と詩題を提供するものであった。如寄は「大明遊子樗屋如寄」と,高らかに自らの明国との関わりをその落款に誇る。寓里はその如寄をとおして寧波の文人と結びついた。わが使節団と寧波の文人たちとの文化交流の中において,如寄はわが国を代表する画家と成し得ていたし,高里も-486

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