注(1) 拙稿「還俗僧寓里集九周辺の画事について(一)一画人如寄と雪舟−J『松ヶ同文また,わが誇るべき丈人として寧波文化圏に認識された。わが美濃文化圏は,京五山出身の還俗僧寓里集九を得て,雪舟と出会い,1人の画人如寄の履歴を大きく変え,そして,了庵桂悟や策彦周良を通じ,寧波文化圏における15世紀末から16世紀前半期の日中文化交流に貢献することとなったのである。7.まとめ『梅花無尽蔵』には,『図絵宝鑑』にまつわる記述があり,高里が伝わり得た中国絵画の情報と知識の一端を窺い知らせる。また,「顔輝名画」や「鍾埴賛,呉道子J,「李公麟画,淵明濯足図」,「李唐」などの詩句を,その記述に遣す。当時,わが禅宗文化圏が知り得ていた『図絵宝鑑』からの中国絵画に関する情報は,「夏氏良之時jとして寓呈自身,雪舟の扉風絵への政文に記し遺しているが,その雪舟自身もまた,「山水図巻」(山口県立美術館蔵)への自肢に,『図絵宝鑑』からの知識と情報を具体的に披露している。そこに雪舟は,画家高彦敬とその筆法を語る。その言葉は,そのまま弟子の等悦へと伝わった。寧波文化圏との接点を得たわが禅林文化圏,および美濃文化圏には,こうした形でかの地の新情報がもたらされていた。また,高里は『梅花無尽蔵』に,大明国の「店筆jという言葉を遺す。美濃の大安寺の老僧が高里に差し出した「渡唐天神図」は,わが画人が描くそれとは様子が違っていた。色も違うし,天神の顔貌も違う。これはかの地の画人が描いた,寧波からもたらされた図だと高里は記す。それを寓里は「店筆」と記した。寧波文化圏との文化交流は,確実にこうした具体的な形となって美濃にもたらされていたのだ。「i度唐天神Jという画題は,具体的に日中をつなぐ文化交流の要になって,その後,両国を往復する過程で幾つもの新図像を生み出すこととなる。かの牡丹花肖柏もまた,入明の人に介して,倉仲和の書「夢庵jの二字を得たという。この時期,寧波文化圏との盛んな文化交流への参画がわが丈人たちのステイタスシンボルとなっていた。美濃の一画人如寄は,土地の還俗僧寓里集九のかたわらで,美濃文化圏にそれをもたらすことに成功した。庫研究年報』第5号,1991年487
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