鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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治9年(1876)から明治14年(1881)にかけては「光線画」で一世を風廃し,その後⑩小林清親の画業にみる近代絵画研究者:西宮市大谷記念美術館学芸員枝松亜子小林清親は明治9年(1876)1月に「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」を出版して以来,大正4年(1915)に没するまで,様々な作品を世に送りだした。明もポンチ画,歴史画,戦争画などさまざまな分野の絵を描き,版画や印刷物を出版した。清親の最初の再評価は「ポンチ画の清親」としての記憶が,まだ同時代のものであった明治40年代のことであり,そのときには失われゆく古きよき東京を懐古するものとして,「光根画」が取り上げられた。その後,清親の名は「光線画jと強く結びつき,近年あらためてその他の作品を注目する機運はあるものの,その評価を大きく変えることにはなっていない。むろん本稿はそうした評価の状況自体の見直しを提起するものではないが,時期時期の代表作を考察することによって,「光線画jの美術的価値に重きをおかれがちな,小林清親の画業の全体像を,捉え直してみたい。2.光線画とは小林清親は明治9年(1876)8月31日に大黒屋松木平吉から「東京銀座街日報社」「東京小梅曳船夜図」などの作品を「光線画」と称して出版した。浮世絵師としてデビューしてから,約8ヶ月後のことである。これらの作品は空間表現,水,光の描写のこれまでの浮世絵にない新しさが特徴とされている。「光娘画」の名にふさわしく,夕闇や夜など,光と陰のコントラストを意識した作品が多い。従来の浮世絵は夜を描きながら,それほど深い閣ではなく,人物はその中に抜かれたようにぽっかりと浮かび、上がっている。一方,「光線画」の閣の中では光に照らされない人物は,ただ、の真っ黒なシルエットになっている。人体の造形のあやふやさ,着衣の描写の淡泊さ,個別の事物に使われる色数の少なさに気づく。もちろん,光と聞のコントラストを表現することと,個別の色を美しくすることや,細部の描写をすることとは両立しないことは理解される。幕末明治期の浮世絵を特徴づけるものとして,派手な色彩の外国染料の使用があげられるが,「光線画」はこれらの染料の使用を意図的に避けている。目を射るような赤1.はじめに492

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