ならず,提灯に導かれて座敷へ急ぐ芸者であることがよくわかる。清親がこの作品を全く知らなかったとは考えにくく,写生から版画の下絵に移る際,この作品の情景が混じたといえるのではないだろうか。このような例から,新風物,報道的な内容と同時に,「光線画j東京名所図は見かけ以上に,これまで踏襲されてきた,「名所絵」の常套を含んでいることが推測される。「光線画Jには東京名所のシリーズとは別に,箱根や静岡に旅して題材をとった作品がある。月,季節,時刻を書き入れ,写生した情景を出来るだけ忠実に再現しようとする意図もみられるが,取り上げた場所に,目新しいものはない。特に富士を扱った作品は,構図も安定している。また,電信柱,洋装人物,人力車など開化風物が盛り込まれているが,それが東京名所のように重要なポイントになっているわけではない。いずれも清涼な色遣いで,作品による巧拙の幅も少ない。これらのシリーズ中,最も特異なものは「駿河湖日没の富士Jである。日没とあるものの,絵の主役はあくまで猟をする人物であり,光や影を追求する空間描写にはさして,気がくばられていない。色彩も暗く濁っている。この時期の清親の版画にみられる人物造形は,どちらかといえば稚拙なものが多いが,ここには,この頃の西洋画描写と共通するような人物表現のくどさがあり,人体の肉付きも正確である。葦のシャープな線,湖面の反射のまとめかたなど,粉本からの直接的な引き写しだと考えなければ理解できない。駿河湖にそれを配したのは奇抜なアイデアであり,実際におこなわれていた鴨猟の様子をみて,考えついたのかも知れない。清親がよく写生をし,特に大気の移り変わりを写し取る感性がすぐれたものであったことは,残された写生帖から十分読みとれる。あまりにも軽やかな筆致からは,清親の目の楽しみが感じられる。しかしこの時代,清親だけが特に写生に努めていた訳ではなかった。五姓田芳柳にも東海道を描いた同様の写生があり,高橋由ーもまた風景のスケッチを描いている(注2)。あるいは写生の問題は,より時代を遡ることも可能である。ありのままを描くという訓練は,特に円山応挙以降,少しづっ蓄積されてきていたはずで、ある。ただそれはあくまで下絵であって,本絵とは本質的に異なるものであるという意識が強く,下絵まで絵画として鑑賞する,現在の私たちの意識とは違った次元に属している。芳柳や由ーの場合も,あくまで写生でありスケッチであって,油彩画となったときには,全く異なる表現方法をとり,自由間違な筆さばきが失われ,ねっとりとしたマチエールの画面となっている。すでにふれた通り,清親の場494
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