鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
507/763

3.「光線画」以降ろう。今私たちは,これが木版で作られていることに感嘆するが,当時この作品をみて感銘を受けた人々は,西洋画の代替物のーっとして捉え,そのことを評価していたに違いない。「猫と提燈」は評判にもかかわらず,あまりにも採算の合わない試みであったらしく,後に摺りの工程を減らした普及版がつくられた(注4)。「光線画jそして大判版画の出版を最初に手がけたのは,大黒屋松木平吉であった。清親にも無論,西洋画のような表現を自分なりに作ってみたい,という意志があったに違いないが,それを実現させたのは版元であり,重大な役割を果たしたことは間違いない。松木平吉には,何とか新しい時代に即した表現を取り入れて,浮世絵を残していきたいとする強い意志があった(注5)。明治24年(1891)に四代田が死去した後は,五代目がその遺志を継いだが,この版元の役割はもっと注目されてよい(注6)。明治17年(1884)から,清親は「武蔵百景jで再び名所絵に取り組んだ。この作品は明らさまに広重の「名所江戸百景」の影響下に作られている。画面を縦に用い,思い切って手前の事物を大きく描き,遠近感を強調する表現が頻繁に出てくる。武蔵と題しながら,現存する作品は江戸百景に描かれた場所と重なり合う。「隅田!||より真乳山遠景」における流れる雲,「谷中団子坂菊jの三色のグラデーションに染め分けられた空など,「光線画Jの応用による様式化,形式化といった面が表現ではわず、かに新しい。ここではそれほど派手な使い方ではないけれども,赤や青の強い色彩を用いている。このシリーズは現存の少なさからあまり評判を呼ばなかったといわれている。明治29年(1896)の「日本名勝図会」では,「武蔵百景」ではまだみられた,構図の狂いやアングルの冒険がなくなっている。安定した上手い絵である。筆の肥痩線を生かした線と,清涼な中間色による事物の塗り分けには,穏やかな作風を好みつつあった時代の趣味を感じる。同じ年の「東京名所真景之内jでは,その表現は更に肉筆の日本画に近づいている。シリーズ中の「如月」は待乳山近辺の情景を,写生に基づき描出しており,構図もよくまとまっている。「光線画」が制作されていた時期,並行してタイプの違う浮世絵も制作されている。「平忠盛御堂法師を捕る図J〔図5〕は,神史を取り扱った歴史物である。ここでは二人の人物はくっきりと明るく描かれている。線の多い着衣の表現や描写の懇切さに,月岡芳年の影響をみることができるかもしれない。しかし人物の背景,閣の表現は独496

元のページ  ../index.html#507

このブックを見る