特のものである。法師の松明によって左側の木は半面だけが照らし出されている。人物,木立,灯寵それぞれに影がある。石灯龍の明かりは放射線状に光を放ち,地面に反射している。灯寵や木立の奥行きも十分に表現されている。これなどは,のちに清親もかなりの量を手がける歴史画の先駆的なものであろう。しかし,このような光と聞の表現への試みは続けられていない。明治15年(1882)には,歴史画の流行のなかで「日本外史之内jの出版がはじまった。月岡芳年の「大日本名将鑑」との影響関係が指摘されているが(注7),清親の他の浮世絵にはない,人物造形で注目される。「源為朝」で三枚続き中央に描かれた鬼夜叉のもくもくとした筋肉は,時代に逆行するような歌川国芳の武者絵を思わせる。「義経八般飛ぴ之図」では全体がくどいまでに鏡舌に表現されており,波の描写に洋風表現の応用がみられるものの,芳年を経由して伝わったと思われる,幕末からの浮世絵の伝統的な造形の延長上にある作品ではないだろうか。さらに,「古今誠画之内」は「日本外史之内jに続く歴史画のシリーズである。ここでもまた,従来の浮世絵の手法が踏襲されている。ただし内容は菊池容斎の「前賢故実」を著しく参考にしており(注8),完成度は高いが,この分野に新しい表現を盛り込んでいこうとする意欲には乏しし、。日清戦争のおこった明治27年(1894)から数年間は,衰えかけた錦絵がいったん息を吹き返した時期であり,清親もたくさんの注文をうけ,制作に励んでいる。日清戦争を描いたシリーズは,その題材にも関わらず,「光線画」以降では最も洗練された,光と影の表現が用いられている。「我野戦砲兵九連城幕営攻撃」〔図6〕では「光線画」の「梅苦神社」にみられた,雨を白抜き表現する技法が用いられている。模糊とした河の対岸は薄日と砲火によって明るい。アイデアと描写が見事で、ある。「冒営口厳寒我軍張露営之図」では雪の中に火を焚いて露営する様子が描かれているが,聞の中で火に向かう人物は半ばシルエットとなっている。全体としてはよくまとまっているが,定型化されていない炎の描写,人物の造形のあやふやさといった点が珍しい。それだけに写生に基づこうとした態度がみられ,表現方法に対する真撃な試行錯誤が「光椋画」を思い出させる。明治28年(1895)の「花模様Jのシリーズは,清親には他に類をみない美人物で,江戸のある時期の風俗の美女を前面に,背後に時代風俗を配した,いわば懐古趣味趣向のものである。同じ時期に開化の美人風俗で人気だった,橋本周延の「千代田之大497
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