奥」のシリーズなどがあり,これも一連の流行に基づいて出版されたものらしく思われる。美女はことさら浮世絵風ののっペりとした目鼻立ちが強調され,このシリーズに描かれたどの時代でも同じ顔をしている。ただし,背後の人物の描き方には,尾形月耕や水野年方など,芳年なきあと主流になりつつあった,淡泊な肉筆画風の表現が取り入れられている。逆説的ではあるが,ここにいたって清親は,浮世絵版画を自在に扱う技術を身につけているようである。4. ~風刺画その他明治10年(1877),大黒屋から「三都美人」が出版されている。錦絵ではあるが,芸妓らの肖像はエッチング風に作られており,短冊に歌を書き,像主の名前を額縁風にのせるなど,アイデアが勝っている。このアイデアが全くオリジナルなものかどうかは一考を要するが,こういうだまし絵的な分野に興味を示していることは,i風刺画を描いた清親の画業を考える上で重要であると思われる。清親は明治14年(1881)から錦絵「清親放痴jを始めている。この最初のポンチ絵は,はっきりした肥痩線の墨画風タッチから,河鍋暁粛の強い影響が見てとれる。やがて単にナンセンスな面白みを表現した「東京大川端新大橋」のような作品から,当時の藩閥政治を批判する内容へと変化していく。「団団珍聞jは明治10年(1877)3月24日に創刊されている。芸州の土族であった野村丈夫が,同郷の藩士本多錦吉郎に訊刺画をかかせたのが最初である明治15年(1882)その後任となったのが清親であった。本多は工部省で測量司見習いを勤め,国沢新九郎の彰技堂で学んで,いわば本格的な西洋の画技を学び,自分のものにしていた。それは,英国のパンチ誌風のデザイン,自在な人体の造形からも見て取れる。それと比較すると,i青親の調刺画にはより「日本画」的な造形が日につく。暁斎の影響を離れた後にも,「新版三十三相」などで、培った,人の表情を強調し,それに伴った造形をおこなっている点,どこか定式化した堅い人体表現にその特質が現れている。「団団珍問」では明治26年(1893)まで、発表を続けているが,その間清親は,銅版画,石版画の制作も試みている。清親には年代の特定できない「名所十景jや,「鹿鳴館仮装舞踏会」などの銅版画作品があるが,銅版画としてみた場合には,自刻という事も考えあわせて,よい出来とは言い難い。一方で、石版刷りにおいては,扱いやすいこともあってか,その特質をかなりよく使いこなしているようである。「当世六変化」〔図498
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