5.まとめ清親の画業の近代絵画における意味7〕では赤と黒の版を巧みに刷り分けて過去現在を二重写しにしており,卓抜な作品である。「黒貝の汐むき」や「眼を廻す器械」などでも石版画表現は,十分な効果を上げている。浮世絵は江戸時代から,社会E風刺を取り上げてきており,歌川国芳にも強い弧刺の意図を持つ作品が知られている。しかし明治に入って,弟子である月岡芳年や落合芳幾はそのような作品を残さず,大衆の興味をあおる三面記事的なニュースを,一枚の完成された錦絵に仕立てる,新聞錦絵に取り組んでいる。清親においても「酒機嫌十二相」といったシリーズは,体裁も内容の軽さも新聞錦絵に近いものといえるかもしれない。人物の表情の誇張表現など,芳幾や芳年と清親の表現に接近のある面もみられる。また表情による性格の描き分けという点でも,両者をひとくくりに出来るかもしれなしミ。しかし,新聞錦絵は構図そのものにダイナミックさ,構築力,物語性を備える要素がある。特に芳年において新聞錦絵は,結果的に遠近法や,従来の浮世絵とは異なる版形による画面構成を,様々に試みて新しい表現方法を開拓していく,いわば実験の場となっている。清親の訊刺画は,それに比べて戯画的な手法において独自に磨かれていくものの,調刺画以外の作品にそれが還元されていくようなものではなかった。清親の政治にょせる眼差しは,辛諌で鋭いものである。それについてはもと御家人であった出自によって,説明されることも多く,出身や身分について,今とは比べものにならないこだわりを持つ社会であってみれば,その推測は当然かもしれない。しかし,注文主の要請に応じた絵を一通り描ける職人としての技量と,世の中に対して批判的に自己主張していく自我とが,清親の中には確かに共存していたのである。以上,小林清親の作品について,その代表的な作例を考察してきた。清親は明治時代を通じて,時代の要請にあわせ多彩な絵画の分野に手を染めた。人々が派手派手しい開化風俗の浮世絵に飽きていたとき,「光線画」を発表してその心をとらえ,藩閥政治への不満が噴出し,批判する風潮が高まれば,長風刺画でその感情を煽った。江戸への最初の懐古は,明治20年代に始まり,それに合わせた作品も手がけた。「歴史画」「戦争画」を試みれば,一定の水準のものを残した。本文中には触れることができなかったが,教本,挿絵の類も出版しているし,東京絵画学校で指導にあたったり,画塾を499
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