注(1) 写生帖第3巻のもの,明治十四年一月十六日の日付のみえるものなど(2) 『没後百年高橋由一展図録』神奈川県立近代美術館他1994年(3) 中山恵理「〈石版『懐古東海道五十三騨真景』油彩原画〉研究序説」気を支えたのではないだろうか。そう考えると,「武蔵百景jのあの「叙情性」の希薄さも理解できる。江戸情緒と風景との幸福な共存関係は,江戸情緒を意識するあまり壊されてしまっている。その後,日清戦争の戦争画を「光線画jの名残として,それ以降,浮世絵は著しく日本画に接近し,日本画が「山水面Jとして生来獲得していた叙情性と,見分けがつかなくなっていくのである。作品を感受する側にも,明治10年代から「光線画Jの再評価の兆しがみえる明治40年代の聞に,「行情性Jを感受することにおいて,重大な変質が起っているようである。近代以前において個性とは,自ずと現れてくるものであり,近代においては,是が非でも意志的に確立するべきものである。「光線画」において,「浮世絵」とは全く別の方向に,いわば無自覚に個性的表現を編み出す努力をしてしまった清親は,「浮世絵」という失われ行くジャンルの中でその地場を固めるほどに,個性的表現への試みを繰り返すことが,二度とできなかったのではないだろうか。近代絵画と私たちが単純に呼ぶものが成立するためには,「画家Jの中のどこかで,自覚的な発想への転換がおこらなくてはならなかった。多分清親はそのことを知ることなく,あるいは知っていてもそれを作品に生かすことが出来ずに,画業を終えたように思われる。ただし,おおさ守っぱな輪郭をとって,その中を濃淡に塗っていく手法で描かれており,清親のように色面で事物をとらえることはなされていない。「シンポジウム亀井の描いた東海道をめぐって名所絵から風景画へ」『研究紀要』第l号郡山市立美術館1998年これらの論文,討論のなかでは,おそらく現地で,写生のようにして油絵を仕上げていった亀井竹二郎について言及されている。この東海道の油彩原画は全く自然な調子で,風景を映し出しており,同じ頃油彩画の風景を描いていた高橋由ーらとの違いに注目される。なかでも「原騨」では,漆黒の聞に店の看板と通行人の提灯の明かりだけが反映されているという,清親の「光線画」を思わせる情景である。描かれたのも明治10年(1877)であり,影響関係とまではいわないまで-501-
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