⑫ 江戸時代における「青緑山水画j受容の研究研究者:学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程吉田恵理1 はじめに青緑山水面(金碧山水)は,唐代の李思訓父子によって完成された山水画のー形式で,明末の董其昌による「南北二宗論」では文人の「南宗画jではない職業画家の「北宗画」とされた。中国絵画史研究では,既にこの画法にこめられた「倣古・復古・古拙・蓬莱・神仙Jなどの意味や時代による認識の変化,用途などに関する研究(注1) も進められており,また鈴木敬氏によって,李氏系青緑山水が「やまと絵jの起源となったという論もなされている(注2)。一方,江戸時代中期以降,いわゆる「南画家」(日本の文人画家)によって,「やまと絵Jの系譜とは異なった,「青緑山水画Jと呼ぴうる作品が描かれはじめるが,詳しい考察はまだない。そこで,青緑山水という画法を意識的に選択して描き,鑑賞し始めたと考え得る作例として,池大雅筆「洞庭赤壁図巻jに注目し,問題提起としたい。次に青緑山水画受容史を概観し,自覚的に青緑山水画法を用いるようになった時代を抽出し,そのことに積極的な意味を見出す事を試みる。即ち青緑山水で描くことも,当時最新の画法の一つであり文人趣味のーっと捉え,同時に中国での青緑山水の意味にも留意し,この問題を考えてみたい。池大雅筆「洞庭赤壁図巻」〔図l〕(56.9×298.4cm絹本着色明和8年ニューオータニ美術館蔵)は,巻首に宮崎笥圃の題,巻末に細合半斎と頼春水による肢が,各々統本に書され,韓天寿の題築,木村藁直堂の箱書を伴う。大雅の知友によって中国風(文人趣味)が色濃く装われた体裁といえよう。題肢と本紙に捺された所蔵印や半斎の践によって,依頼者は西村孟清(字は古愚,伯恭,袴屋仁右衛門。江戸買物問屋。大阪の漢詩結社,混沌社の主要メンパー)とわかる。特筆すべきは,本画巻が混沌社系列の文人達に,制作当初より末永く愛玩された証が,数種類の詩文や模本制作,展観記録(注3)からも伺えることだ。これに対し,同年,与謝蕪村と合作した「十便十宜画冊Jには,制作当初の賞翫状況を示すものは無く,完成して16年も後の増山雪斎の為書と後世の模本(十時梅厘,中林竹洞,富岡鉄斎による)のみを遺す。何より画風が異なると思われるので,以下,検討する。2 池大雅筆「洞庭赤壁図巻Jについて-521-
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