鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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筆Jからも,天寿が本画巻にみた作風を,「唐時代風の金碧青緑山水Jと認識したこと水の流れに導かれて見て行くと,構築力あるゴツゴツした断崖にぶつかる。岩の塊には,濃淡ある鋭角的な墨線が用いられ,断崖の下方に目を移せば舟が浮かんで、おり,赤壁の景であると読み取れる。再び水景が広がり,大小の島々が点在する。緑青や群青をなすりつけた小丸形の樹木を連ねることで,朱塗りの岳陽楼を中心に,モコモコとした独特なリズムが円環状に展開する。画面全体を広げてみれば,f府間土的な構成法は,明末清初の画巻の遠近感を訪併とさせ,水面の柔らかく蛇行する細く強い線描,チマチマと描かれた人々の営みは,文徴明一派の園林山水等の箱庭的な世界をも想起させる。その上,樹木の幹や,土壌の墨線の傍らなど,至る所に九帳面に金泥のくくりが施される。微妙に濃淡を付けた墨線は水墨調で,顔料も薄塗りだが,全体を支配する表現は緑青と群青を併用し,墨の輪郭線に金泥の括りを施した,一種の金碧青緑山水面的手法で、ある。大雅作品中,この種の表現はまま見られるが,管見の限り本図巻ほど独自のリズムを保ちつつも,背後に中国絵画の造形要素を感じる(注4),力強い作例は珍しい。当時の本画巻への反応を見てみよう。半斎の蹴(注5)によれば,30年来,多数の大雅作品を見てきた半斎でさえ,落款を見てはじめて大雅の筆とわかったというから,異色であること疑いない。践は金碧山水で、あることを指摘し,大雅の筆意は,青緑山水を能くした梁代の張操訴と唐代の李思訓父子にあるという。また,題築「法唐人之が伺える。おそらく大雅も,意図的に「金碧青緑山水画」を選択し,それを鑑賞する友人(文人)達もその事を賞賛したと推測できょう。ところで本画巻は,大抵,大雅の友人桑山玉洲の画論書『絵事部言』(寛政12年)の「…大雅此園ヲ作ルトキ数度琵琶湖ニ遊ンデ其ノj砂走タル水態ヲ熟視シ,其ノ情趣ヲ以テ濡湘湖ヲ想見シテ終ニ是レヲ為スト云フ…」という一文と共に,大雅の「真景」に学ぶ作画姿勢の実践として紹介されてきた。しかし私は,むしろ先学が指摘する(注6),王洲が琵琶湖を洞庭湖に見立てたことこそが重要と考える。本画巻は混沌社系統の詩文や,展観録の題など,後の記述にみるように,青緑山水で、描かれた[調庭湖図」(濡湘をふくめた)と認識されてもいた(注7)。ただし,画面構成の比率からも赤壁と洞庭湖が対となっていることは明白で,洞庭湖だけを描いているのではない。薬直堂の箱書や天寿の題接にも「洞庭赤壁図jとあるし,赤壁から黄鶴楼・岳陽楼など洞庭湖に至るまでのモティーフを記述をする半斎の政文からも,本来赤壁と洞庭湖の双522

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