方を描いた作品として受け取られていたといえる。なお,本画巻の出典は楊爾曽『海内奇観』巻八「黄鶴楼岳陽楼赤壁磯図説j〔図2〕であることを発見した。『海内奇観』は地誌で中国の名所ダイジェストである。本書の赤壁から洞庭湖周辺の地形を解説した一文と,画中の書は一致し,「右万暦己酉楊聖魯記」とある万暦己酉(37年)は『海内奇観』中の楊爾曾(字は聖魯)による序文の款記と一致するから,大雅がこれを引用したことは疑いない(注8)。故に,本画巻は大雅が意図して赤壁から洞庭湖に至る景色を一画面におさめた事が推測できる。おそらく作者は意識的に青緑山水画を選択し,同時代の受容者,江戸後期の鑑賞者も,その事を賞賛していると思われる。が,現代の我々には,大雅のこの種の着色画法を,青緑山水と呼びうるのか,些か疑問でもある。以下,煩雑だが,大雅の試みに先行する例や,青緑山水は伝統的にいかなる意味をもち,どのように受容されてきたのかをさぐるべく,日本の青緑山水画受容史の概観を試みたい。3 青緑山水画受容史概観青緑山水表現における日中間の関係は,やまと絵の祖形としての要素にとどまらない。その後の日本でも意識的にか無意識的にかあるいは素材のもつ造形的な力からか,青緑山水的表現は聖なる情景を表現する場面に散見される。例えば「山越阿弥陀図J(禅林寺)のような,本尊の背景の山岳表現に見る緑青と群青の縞模様は,李昭道画と「源氏物語絵巻関屋図」の縞模様を比較した鈴木氏の論(注9)を踏まえてみれば青緑山水画法の片鱗が伺えるといえよう。また「虚空蔵菩薩るなだらかな山は,神仏の宿る山の表現として相応しい。室町時代以降,仏画の背景の山岳表現に,緑青や群青が多用され,輪郭線にそって細い金泥の線のくくりや,金泥を面的に処理しハイライトが施されたような手法は常套手段となる。仏画に限らず,例えば「融通念仏絵巻j上巻(清涼寺)の巻頭部分など,絵巻物にも類似した表現がままみられる。やはり李昭道画との関係が指摘された東寺旧蔵「山水扉風」以来,神護寺蔵「山水扉風」などこの種の扉風も特に室町時代になると盛んに制作されるが,例えば「日月山水図扉風J(金剛寺)でも,画面に日月,季節がつめこまれ,山には切箔が大胆に施されるなど,パラダイス表現の片鱗が伺えるだろう。像J(東京国立博物館別本)の,画面下部の緑青が多分に施された,朝熊山とも言われ3 1 無意識時代一江戸時代初期まで一-523-
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