学Jといわれた文晃には「熊野舟行図巻J(山形美術館)のような,一般にやまと絵風の展開を示すと思われる。寛政年間以降,特に谷文晃周辺の画家による青緑山水作品は,大雅風のそれとは異なり,明末以降のこの種の画題や画法をより直接的に踏襲している。それらは概ね,l,蓬莱神仙,吉祥を示す図(物語含む)と,2,倣古の形式をもった図(王維朝川山荘園を含む)に二分されるといえよう。以下,紙面の関係上,文晃,広瀬霊山,田能村竹田作品を例に報告をすすめる。lの例として文晃は,画面中心に楼閣を配し,左右に瑞雲をたなびかせ,主山を金碧青緑で描き,吉祥性を前面に出した「蓬莱図」(個人)〔図9〕や,緑青や群青に微妙な色調の変化をつけ均質な金泥の線の括りのある装飾性の高い「金碧青緑山水図J(個人)〔図10〕,大幅の「桟道紅葉図」(富士美術館)を描いている。霊山は,中国画の模写集と思われる「山水面冊」(個人)の一葉に夏明遠以来の手法で「仙山楼閣図」〔図11〕を描く。また,「武陵桃源図jは文晃の師,渡辺玄対ら,多くの画人によって描かれたが,文晃は,主題の情感を出すためか膿瀧とした調子の「武陵桃源図」(個人)〔図12〕を描いている。田能村竹田「武陵桃源図」(大分市美術館)は文派風の薄塗りの青縁山水で,同系統の筆遣いで「青山白雲図jも描いている。一方,竹田としては異色の厚塗り,かつ筆致が長く重厚な「青緑山水図J(大分市美術館)もある。本作品は『自画題語Jに,「大青緑jと記され,また画面には鹿など吉祥のモチーフがみられ,意図的に青緑山水という手法を使用したことが伺える例といえようか。2の例としては「法李伯時(李公麟)筆jと記された文晃「金碧青緑山水Jがある。明末以降の,ポーズとしての倣古が反映された一例といえよう。霊山にも「模龍眠居士山荘図」と記した「青緑山水図」(東京国立博物館)〔図13〕があるが,本図はモチーフから王維の網川図を描いていることは明らかだろう。なお,文晃,霊山とも,李公麟と王維を勘違いしている。これらは水墨画発生以前の唐時代の画人,王維の画風は,青緑山水だったという解釈の下に,明末以降描かれた網川図が下敷きになっているだろう。江戸後期になると,倣古という体裁,青緑山水が選択される画題の出現など,明清文化を反映した作品がでてくる。また青緑山水の中でも描き分けがなされる。「八宗兼とされる作品もあるが,熊野が日本古来の聖地であったから,やまと絵風の青緑山水3 3 江戸後期谷文晃とその周辺526
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