注(1) 長寿や合格祝い等の贈答品に使用された事など作品解説での指摘以外に,総合的が選択されたのかもしれない。何れにしろ文晃周辺では,明末清初の大衆化した文人趣味を踏まえた,ある程度意識的な使い分けが認められるように思われる。なお,日本の名所を丁寧な金碧青緑山水で8冊の画帖におさめた淵上旭江「五畿七道図」(岡山県立美術館)の存在を知った。こうした作例が出現する背景については改めて考えてみたい。煩雑ながら,青緑山水画受容の様相を概観してきた。もとより,江戸初期までの青緑山水画的表現をみても,複雑であって,「夏明遠」の画法に集約されるものでもなく,やまと絵の流れを,よりふまえて考察すべきである。この事は江戸後期においても同様である。ただ,文晃に代表されるように,江戸後期には,蓬莱的なものの他,倣古の意をもっ,明末清初の文人画の影響を直接的に示す青緑山水画が増大するのは事実である。おそらくこれらは,文人趣味の浸透と共にうけいれられたのだろう。ここで,今一度,大雅の「洞庭赤壁図巻」の史的位置を見るならば,金碧青緑山水画法を,画家も同時代の鑑賞者も自覚的に選択した,即ち青緑山水で描くことも,一つの最新の中国画法であり文人趣味の表象となった比較的早い例といえるのではないだろうか。このことは中山高陽『奥瀞日記』の「…重畳たる群馬,千里一瞬にして島色歴々たる,まことに李将軍着色山水也…」,「−−−松島は李将軍大幅着色山水也。象潟は北苑淡墨の手巻ならん…」という,日本の風景を中国画法,しかも李恩訓父子の青緑山水画法に例えて,感動を表現する態度や,また,浦上玉堂の「玉堂文房十八友」の画の項に,寛のときは「金碧仙山楼閣図」とある)を,唐寅や謝時臣の作品よりもまず第一に「其ー岳陽楼図」(伝孫君津の金碧楼閣山水として解説)と記していることにも共通する態度のように思える。今後も「青緑山水jの持つ意味と江戸の「文人画」理解を,作品から抽出することで,文人のイメージがどのように展開するのかをみていきたい。な書としてSacredMountains in Chinese αrt, krannert Art Museum, University Illi-4 おわりに政5年,讃岐で行われた中国画のみの書画展観「暢春楼展観」にも出品した作品(こ-527-
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