鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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(9) (2)参照(11) 今回の調査の時点ではなかったが,本画冊にも「筆耕園Jという題築がついでい(鄭麗芸「唐人之舌無名手一一一「洞庭赤壁図巻」をめぐってJ(『文人池大雅研究中国文人詩書画「三絶」の日本的受容』白帝杜1997年所収))。『海内奇観』は既に狩野探幽が「詠濡湘八景」を写している。(板倉聖哲「江戸時代初期狩野派における中国画受容因みに楊爾曽は画論を含む初の総合的絵手本で和刻本も出された『図絵宗葬J万暦35年(1573)の編者『芥子園重惇』初集に序を寄せ,「十便十宜画冊」の詩の作者である李漁(李笠翁)同様,楊爾曾も日本で知られた人物であったか。同『中国美術家人名辞典』上海人民美術出版社(内容要約筆者)によれば,元末の画家,字は明遠。至正7年(1347)に岳陽楼図を制作。界画は精細で,上に牒王閤賦,黄鶴楼記を細書きする,という。『君蔓観左右帳記(東北大狩野文庫本)』には「中上夏明遠銭唐人,山水人物楼閣,自然御物にも成候」とある(明初の夏義甫とは別人)。因みに九州大学図書館(黒田綱政書入本写本)には,「夏明遠元朝/山水楼閣彩又墨」とあり,別に安信の言葉が書き添えられる。なお,界面も青緑山水も共に職業画家の範障の画法であったためか,両画法は密に関係すると思われる。参考となる展覧会図録を挙げておく。『宮室楼閣之美界画特展』園立故宮博物院,2000年たという。また「唐絵手鑑筆耕園」と同ーの図はない。『狩野派と福岡展』福岡市美術館,1998年カタログ参照同武田光一「池大雅筆「富士十二景図」について」『園華J1059号(1983年)によれば,「一月」の図にも,水の表現に金泥が刷かれているという。サントリー本に通ずる,大雅の着色表現の特徴の一つのように思われる。同懐徳堂と混沌社をつなぐ記念的な作品であること等は,神山登「福原五岳の人と作品」『日本美術工芸j504号(1980年)に詳しい。橋爪節也「近世大坂文人画の展開と問題木村莱龍堂とその周辺を中心にJ (大阪市立博物館『近世大坂画壇の調査研究大阪学調査研究報告書lj 1998年所収)によれば,黒川修一氏により大雅と五岳の扉風の関係について近く論孜発表予定とある。「探幽縮図」を通して」『遠津と探幽』福島県立博物館,1998年)529

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