ダン・イヴイングとジーン.c.ウィルソンの論文を手がかりに南ネーデルラントの絵画販売事情を見ていくこととしよう(注11)。イヴイングはアントウェルペンの絵画市について報告している。それによると,15世紀の初頭(1411年)から既に,アントウェルペンやブルージュの市に絵画を調達するために立ち寄った,ないしは教会から祭壇画購入のために代理人が送られたという記録が残っている。南ネーデルラント地方では,工芸品や賛沢品を並べる市をパンツPand,Pandtと呼んでいるが,最初は年の市で画家組合に属した画家個人が屋台のようなスタルStallを借用して作品を並べたものであった。よって,常設ではなかった。アントウェルペンの場合,1445年からドミニコ会修道院の敷地にパンツが設置された。ブリユツセルの聖ルカ組合の画家たちは,このアントウェルペンの市に参加してスタルを借りて作品を陳列した。1460年にはアントウェルペンのノートルダム教会の敷地にマーケット用の建物を備えたパンツが出現し,1480年にはアントウェルペンとブリユツセルの聖ルカ組合の画家たちはドミニコ会修道院を去って,こちらに移った。このパンツは,今日のPandstraatと往年の運河に面したノートルダム教会の敷地にあった。一方,ブルージュに関しては,ウィルソンの論文が報告しているが,1200年代既に,中には絵画や工芸品も恐らく含まれていたであろう。1482年にブルージュの画家組合が要望して,Mind巴rbroederskloosterの敷地に美術工芸品用の陳列所,パンツPandtが聞かれるようになったということだ。1511年からはこのパンツをブルージュ市が管理することになり,それ故,スタルを借りた画家や画家の妻,仲買い人と見られる商人の名前なとマが古文書に残っており,スタルの賃貸料や誰がどれだけのスタルを借りたかなども知ることができる。当時,作品は画家自身が販売するというやり方が一般的であり,その街の画家組合に登録していない者が売ることはできないという規定があった(注12)。よってこのように,市に絵画を陳列して販売する他には,画家はアトリエのショウウインドウに作品を陳列して売っていた。このような販売形態を通して,購入者たちは絵画に触れる機会を多くもつことが可能であった。また,画家たち自身も市での売れ行きを目の当たりにし,全南ネーデルラントの画家の集会の機会に情報を交換するというやり方でどのような作品を制作すべきかや制作方法などについても自ずと学んだ、ことであろう。ブリユツセルの15世紀の画家の住所を見ると(注13),多くは当時唯一敷石が敷かれ年1回の定期市が聞かれ,市中の至る所に商品が並べられていたということだ。その542
元のページ ../index.html#553