円iつ。像は,妙法院三十三間堂千手観音像胎内摺仏の鎌倉時代のもの以外には例がなくやや特殊な図像といえよう。ただ,彫像における正法寺像のように脇面を有する例で,左手最下の手が「甘露手jとなっている点,同じ根拠によるものかと考えられ,『大悲心陀羅尼』に基づく千手観音像の造像がある時期盛んとなったことがうかがわれる。次に東博の二十八部衆を伴う画像では,観音の頭上に両手で頂上化仏を捧持する像容がとられている。これは,妙法院三十三間堂千手観音像胎内摺仏の平安時代のものにも認められる像容であり,また,清水寺の千手観音像など彫像にもまま見受けられる。中国敦憧の第3窟壁画の元代の千手観音画像にも認められるが,一般的な図像とはいいがたい。この図様の根拠は,『千手経』で明確に規定されない「合掌」以外の両手捧持の持物を「頂上化仏」と解釈したためではないかと考えられ,そうなると意外に古い図像であった可能性もある。次に,胎蔵界呈茶羅中の千手観音をはじめ清澄寺本などでは,「宝鉢」のかわりに「入定印」となっておりまた,「傍牌」もなく『摂無擬経』の記述に基づく例であろこのように,まず,千手観音像の像容について,特に頂上面の面数や特徴,管数と持物・印相について,経軌の記述もあわせて概観したが,密教以前の『千手経』と『千光眼経』など純密系ではない経典に説かれる像容をもっ例が多く,『大悲心陀羅尼Jに基づくものはやや特殊な例として制作の時期が限定された感がある。また,『摂無擬経』は胎蔵界蔓茶羅中の千手観音に近く,どちらが先に成立した図様かといえば,案外胎蔵界量茶羅が先に成立しそれを後追いした可能性もある。ただ,『大悲心陀羅尼Jと『摂無擬経』はどちらも不空の訳になるもので千手観音の像容が8世紀ごろには多種存したことをうかがわせる。II .春属について千手観音画像のうち,春属を描くものが多数を占める。その中でも,婆薮仙・功徳、天の二尊のみを配する例と二十八部衆,その他の尊を描くものの大きくは三種に分けられる。この違いは,千手観音本体の相違,例えば,宝鉢系か定印系かなどのちがいによるものではなく,何によるものか断定はできないが,前者の場合,二十八部衆を代表するものとしてこの二尊を選んだとも考えられようし,胎蔵界蔓茶羅中の千手観音の春属にこの二尊が挙げられていることによるものかとも考えられる。事実,前記
元のページ ../index.html#586