。。門童子を配する例もあり,これなどはあきらかに『華厳経』中の普財童子であろうと思われる。補陀落山の描出は,観音の浄土である補陀落浄土を意識したものであろうと思われるが補陀落浄土の描出例は,古く天平時代に湖るもので,天平宝字五年二月,興福寺一堂の補陀落浄土変の例や,薬師寺の例などがある。それらの補陀落浄土変の様相は審らかでないが,観音画像の周辺景の描出に少なからず影響を与えたであろうことは想像に難くない。ただ,東博の二十八部衆を伴う画像では,階段を付けた須弥壇のようにしており,特殊な例といえよう。まとめ千手観音画像の分類・整理を試みたが,千手観音本体の図像については経軌や彫像の先例などを根拠に,頂上面の面数とその在り方によって,また,腎数とその持物・印相によりおおまかに分けることが可能で、あった。頂上面については胎蔵界憂茶羅中の千手観音像の影響を受けた二十七面で脇面を付ける特徴を持つものとそうでない十一面のみのものに大きく分けられようが,四天王寺本のように十一面(仏面)でありながら脇面をつけるものもあり一概に胎蔵界蔓茶羅系とそうでないものという分類はできない。一方,腎数と持物・印相ではそれぞれ依拠する経典により四種に分けることが可能であった。ただ,頂上面の様相と持物・印相の相違が必ずしも一致せず,画像制作にあたってそれぞれ別個の図像に基づいていると解釈すべきなのであろうか。それは,春属である二十八部衆の像容においてより顕著で、それぞれに異なった図像・配置が執られていたと解すべきであろうか。周辺景については,天平時代の補陀落浄土変まで湖るかどうかは疑問であるが,『華厳経』などに示された観音浄土の表現のーっとして本尊画像にとり込まれたものと解釈できょう。これら画像の異同と千手観音信仰との関連について言及しえなかったが,今後の課題としたい。i
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