50年代美術を見てゆく必要があると言えるのではないか。54年が4通,58年がl通,60年がl通,61年が6通,62年が7通であり,後者は,54だ。視覚的な存在でもなければ,瞬間的に把握されるものでもない。それは,壁に掛けられて初めて,相反する複数の解釈を生じさせるのであり,視覚性を強調する方向にも,それを崩してゆく方向にもどちらにも向いうる。掛け方次第で印象が変わることはどんな絵画にも多少は見られるだろうが,ルイスの絵画はとりわけ,解釈の深刻な対立を生んだ点に特質があると言えよう。今まで見てきたように,グリーンパーグもルイスも決してフォーマリズムに限定されるものではない。従って,両者が出会い,親交を深めた50年代の状況をフォーマリズムの観点から理解するのは不可能である。一度フォーマリズムの枠組みを外して,これらを念頭に置きつつ,次にワシントンD.C.のアメリカ美術文書館に保管されているルイスとグリーンパーグの聞に交わされた往復書簡を分析してみよう。両者の手紙は,「モーリス・ルイスとモーリス・ルイス財団文書jと「グリーンパーグ文書」に保管されている(注29)。両文書には,グリーンパーグに宛てたルイスの手紙が19通,ルイスに宛てたグリーンパーグの手紙が7通含まれている。前者の内訳は,年が4通,61年が2通,62年が1通である。残された手紙は,54年,61年,62年にほぼ集中している。この時期に両者の交流が盛んだったことが窺える。ルイスの手紙には何が書かれているのか。まず,多くの手紙でルイスがグリーンパーグのコメントに感謝している点に気づく。詳細は不明だが,グリーンパーグのコメントは,作品分析や実務的な助言なとミ多岐に渡っていたようだ。新聞記事の切り抜きを送り合っていた様子も窺える。62年夏になると,秋に計画されていたアンドレ・エメリッチ画廊での個展のことを心配する様子が文面に現れる。とりわけ,作品を枠に張るための手続きを確認したり,作品のタイトルを付けるようグリーンパーグに求めている。他方,グリーンパーグの手紙はどうか。グリーンパーグは,ルイスと画廊主やコレクターとの仲立ちをしていた関係で,実務面に関する手紙が多い。61年になると,新しいストライブ・シリーズに関する発言が見られ興味深い(この点に関しては後述する)。では手紙の具体的な検討に移りたい。まず54年6月6日付のルイスの手紙を見てみよう。ルイスは,グリーンパーグの勧めに従い,ニューヨークのピエール・マテイス48
元のページ ../index.html#59