鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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つdn同r「dU無限に明るく大きな」光と,知性によってではなくそれを越えた悟性によって統合されることによって可能となるのである。西欧カトリック世界のニコラウス・クザーヌス枢機卿(1401-64)は15世紀のイタリアにおいて光の神学を最も積極的に唱えた神学者且つ人文主義者と言える。クザーヌスもまたフエラーラ・フイレンツェ公会議において重要な役割を果たした人物であるが,特に彼はスド・デイオニシウス,ギリシャ教父たち,そしてプラトンのテイマイオスから大きな影響を受け,同時代と後世の人文主義者たちを多大に啓発した「光の父の贈り物」(1446)を著した。当奨学金がイタリアでの研究調査のための助けとなる筆者の博士論文においては,この様な光の形而上学,光としての神という概念,そして無原罪の御宿りといったキリスト教神学がどの様に当時の宗教建築の光の扱いに取り込まれていったかを明らかにするものである。当報告書においては,この様な光の神学の議論がまさに盛んに行われ始めた時期に在位した,ルネサンス期の最初の人文主義的教皇といわれる教皇ニコラウス五世(1447-55)に焦点を当て,彼の私的,しかし政治的に機能した礼拝堂,カベラ・ニッコリーナ〔図1〕の床上に大きく彫り込まれた燃える太陽のエンプレム〔図2〕の意味について考察したい。議論を進める前にまず当礼拝堂について簡単に触れ肝心の太陽のエンプレムを分キ斤したい。フラ・アンジェリコによる聖ステファヌスと聖ラウレンテイウスのフレスコ・サイクルで有名なこの礼拝堂は,ヴァテイカン宮殿の構成要素である中世の塔の三階と四階が,教皇ニコラウス五世の私的アパートメントの一部を占める礼拝堂として改造されたものである(注3)。その建設は彼が1447年春に教皇の座に就くとすぐにはじめられ,短期間のうちに完成したと考えられている。そのサイズは極めて小さく長さ6.80メートル,幅4.23メートル,交差ヴオールト天井の頂点の高さ8.45メートルである。今日見られる大きな窓によって後世に改変されてしまったが,祭壇のある壁の上部には丸いオクルス窓が聞いていたと考えられている〔図3〕。オクルス窓は当礼拝堂のフレスコ・サイクル中にいくつも見い出されるが,オクルスは神の目とそこから発散される光を象徴するものとして,ニコラウス五世に仕えた枢機卿ニコラウス・クザーヌスにとって神学上の重要な概念の一つである。またニコラウス五世の死後直後に書かれたジャノッツォ・マネッティ(13961457)による同教皇の伝記には,同

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