A斗晶教皇がオクルス窓に,特にそこから太陽光(神聖な光)が宗教建築の屋内空間に照射されるという点で,特別な関心を持っていたことが記されている(注4)。現在に至るまで歴史家や美術史家たちの間で殆んど顧みられることのなかったこの教皇ニコラウス五世の太陽のエンプレムは,当礼拝堂の床のほぼ全体を占める。その基本的構成は,中世以来宗教建築の床面装飾に,またヴァテイカン宮殿の床にも広く使われているコスマテスク(注5)仕上げによく見られる,一つの大きな円とそれを取り囲む四つの小さな円で構成されたクインカンクス文様(注6)を踏襲している。中心の大きな円の中には燃える太陽が彫り込まれ,それは一年の各月を示すイニシャルに固まれている。この大きな円はキリストの血と肉を象徴する葡萄酒とパンを入れる二つの聖器に挟まれ,それらと共に四つの小さな円を結ぶ菱形によって縁取られている。其々の小さな円の中には一様に教皇ニコラウス五世の名が彫られている。そしてこのクインカンクス文様はランプ(合計12で十二使徒を表す),様々な星々,アカンサスの葉,そして教皇権の象徴である聖ペテロの鍵からなる一種のアル・アンティーカ(古代)様式の文様で縁取られている。この様にカベラ・ニッコリーナの床では,それを取り巻くサラ・デイ・キアロスクーリや後世のユリウス三世のキュウピクルム等の各部屋において使われている色鮮やかなコスマテスク仕上げがあえて利用されていないという点で他の部屋とはその性格を著しく異にしている。では,ニコラウス五世(または彼の建築家)はなぜ当時の宗教建築において,またヴアテイカン宮殿においても多用されていたコスマテスクを用いなかったのだろうか。また,彼の太陽のエンプレムにはどの様な意味が込められているのであろうか。この疑問を解くためには当時の教皇庁の政治的文化的背景に目を向ける必要がある。15世紀前半の教皇庁の権威は依然として失墜していた。教皇マルテイヌス五世(在位141731)以来アヴイニョン捕囚に終止符が打たれたものの,前教皇エウゲニウス四世(在位1431-47)は政治的不安定なローマからほとんど追放されるかたちでフイレンツェに教皇庁を移動し,彼がこの永遠の都に戻ってきたのは1443年になってからであった。これによって短い期間の例外はあるものの130年間にも及ぶローマでの教皇庁の不在に終止符が打たれた。しかし,ニコラウス五世自身が教皇に選出されると教皇権至上主義に対立する公会議派が対立教皇を立ててくる有り様であり,彼はシスマ,教
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