c. 35)は,キリスト教の歴史において誉れ在る最初の殉教者であり,彼の遺体はエルサ会内の腐敗,公会議至上主義派,そしてローマの世俗権力者たちと戦わなければならなかった。それゆえ彼の新教皇としての使命は必然、的に,「岩」とキリストによって呼ばれたペテロの後を受け継ぐ「キリストの代理」としての教皇の至上性の確立,教会内改革,そしてローマをもう一度キリスト教世界の文化的かっ精神的中心に建て直すことであった(注7)。レナーテ・L・コレッラはこうした社会的背景からカベラ・ニッコリーナのフラ・アンジェリコによるフレスコ・サイクルを入念に読み解くことに成功している(注8)。その精綾な論によると,聖ステファヌスと聖ラウレンテイウスの二人の殉教者の物語がここでのフレスコの主要な主題として選ばれているのは極めて政治的理由による。聖アウグスティヌスによって5世紀にその崇拝が奨励された聖ステファヌス(没レム近郊のカファル・ガマラで415年に発見されてからコンスタンティノープルを経由してローマのサン・ロレンツォ・フオーリ・レムーラ聖堂に運ばれた。一方聖ラウレンテイウス(没258)はローマで殉教し,聖ペテロと聖パウロと並ぶローマの聖人として4世紀後半からその崇拝が盛んになり,その墓の上に彼の名を冠する上記の聖堂は建設されたのだった。伝説によれば,聖ステファヌスの遺体と交換に聖ラウレンテイウスの遺体はコンスタンテイノープルに運ばれることになっていたが,その運び手であるギリシャの修道僧が遺体を運ぼうとした途端急死し,人々はこれを両聖人がサン・ロレンツォ・フオーリ・レムーラ聖堂に共に留まろうとする意志の現われと受止めて,聖ステファヌスを聖ラウレンテイウスの隣りに埋葬した。政治的に見ると,このことはラウレンテイウスの聖人としての既に高い格がさらに引き上げられることを意味し,この様にローマが聖ステファヌスの遺体を獲得したことは,同聖人がエルサレムやコンスタンテイノープルではなくローマを選んだことになり,キリスト教世界におけるローマの司教座の至上性というローマ教皇が歴史的に常に唱えてきた主張を支えるものであると言える(注9)。また,三人のギリシャ教父を含む八人の教会博士たちの像(アンブロシウス,アタナシウス,アウグステイヌス,大グレゴリウス,ヒエロニムス,クリソストムのヨハンネス,大レオ,そしてトマス・アクイナス)がこの礼拝堂の壁を縁取っているが,595-
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