。。IHSを板に書き付け,それを崇拝するようにと聴衆たちに高く掲げた(注22)。他方,ヨツフロイのように鮮やかなレトリックを披露しながら太陽として神聖化して表現することは,人文主義を奨励したニコラウスの教皇庁ならではの新しい現象である。そして,真の友としてニコラウスの生前の意志を理解するジョッフロイのこの悼辞は,キリストの代理である教皇の絶対性を決然と呈示しているのである。では,ニコラウスのエンプレムに見られる「燃える」太陽の炎の表現はどこから来るのだろうか。1450年の聖年の際に,ニコラウスはシエナのフランシスコ会士ベルナルデイーノ(13801444)をその死後僅か6年後に異例の早さで列聖したが,彼はこの信仰と教会の改革を説き,それを実践する聖人に深く惹かれていた。ベルナルデイーノはナポリ王国領を除くイタリアほほ全土を徒歩で旅し,頻繁な派閥争いのために各都市の教会内や市庁舎そして邸宅などに保管されていた武器を放棄し,その代りにイエズ、ス・キリストを表すIHSのトリグラムをその場所に据えるように説いた。1424年にヴォルテッラで説教をしていた際に,ベルナルデイーノは燃える太陽に固まれた15世紀前半のフランシスコ会は依然として教皇庁によって公式には認められていなかった「聖母マリアの無原罪の御宿り」の崇拝を特に推進しており(注23),そのイメージは14世紀と15世紀前半に作られたいくつかの彩色写本に,処女マリアが「神=燃える太陽Jを纏う図像として表現されている(注24)。フランシスコ会土であったベルナルデイーノはこの図像にくわしかったに違いなく,ニコラウスにとってこの燃える太陽は,マリアを通じての神の受肉と教会の改革の両方を意味する図像たりえたのではないだ、ろうか。キリスト教の伝統ではキリストを懐胎するマリアは神の光によって照らされた人間の叡知を象徴し,神とマリアとの関係はよく神と教会との関係になぞらえられる。以上のことから,この燃える太陽の図像を,神であるキリストの代理たる教皇として,ニコラウスが自分の礼拝堂に刻まれるエンプレムに利用した意図が,より明白に現われて来る(注25)。既に見てきたように,フラ・アンジェリコによるカベラ・ニッコリーナのフレスコサイクルでは,聖ステファヌスと聖ラウレンティウスというエルサレムとローマで活躍した聖人たちが描かれている。彼等はそれぞれの地で組織としての初期キリスト教教会の形成に貢献した聖人たちである。また,フレスコ中で彼等を叙任するのは聖ぺ
元のページ ../index.html#609