hu《⑩ お抱え絵師の明治維新一一熊本藩のお抱え絵師杉奇雪樵の場合一一研究者:熊本県立美術館学芸員村田栄子I はじめに江戸時代最末期のお抱え絵師が,明治維新ののち生活基盤を失いながらどのように活動し,絵画制作をおこなっていたかということについては,いまだ不明な部分が多い。とくに,地方の藩のお抱え絵師の大半については,いくつかの作品の存在と,美談を交えた略歴が断片的に知られる程度であろう。杉谷雪樵(1827〜1895)は,雲谷派の流れをくみ矢野三郎兵衛吉重を祖とする,熊本藩のお抱え絵師の一派,矢野派の系譜につらなる絵師である。幕末から維新を経て,明治時代前期にかけて活躍した画人である。熊本においては,藩のお抱え絵師の捧尾,あるいは熊本近代日本画の先覚者などど評されることのある人物である。しかしながらこの雪樵についても,従来の評価からも窺えるように,彼の作画時期が明治維新をはさむ前後,いわゆる“近世”と“近代”とをまたぐため,ややもすれば維新時で研究が分断されている感もあり,杉谷雪樵の生涯と作品についての総合的な評価は,必ずしも十分になされているとはいえない状況にある。報告では,確かに一つの転機となったことが予想される明治維新を従前通り区切りとしながら,従来の諸評伝の記述を再検討しつつその生涯を改めて通覧し,年記を有する作品を中心にたどりながら作風の変遷を考えるとともに,それらを一貫する雪樵画の特質について考察する。そして,晩年東京で活躍を見せながらも,時の流れとともに中央画壇では忘れ去られた杉谷雪樵について,総合的な評価をおこなってみたい。江戸時代の雪樵杉谷雪樵の誕生について,各評伝(注1)には文政10年(1827)という年紀だけが記されるが,熊本市横手の長国寺に現存する墓碑銘には,9月26日に現在の熊本市坪井町に誕生した旨が刻まれている(注2)。幼名を市太郎,また一太郎という。雪樵の父行直(1790〜1845)は,市内新町にあった幾(生)島屋という商家の生まれであったが(注3),のち絵画の道を志して,藩のお抱え絵師であり当時の矢野派の中心的な存在の一人であった,衛藤良行(1761〜1823)の門人となった。行直もやがてお抱え絵師となり,山水・花鳥図を得意としたという(注4)。以下『絵画叢誌』によると,
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