鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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月ihu《雪樵は,父と矢野家6代良敬(1800〜1858)に絵を学び\やがて良敬の一字を受けて「敬時」と号するようになった。弘化2年(1845)'18歳の時に父行直が死去,極貧の生活の中で杉谷家を継ぐが,数年ののち,ょうやく藩の絵師として禄を加増されることとなる(注5)。この頃はもっぱら雪舟の筆意を研究し,山水画は宋元時代の玉澗や夏珪を,花鳥画は五代の画家徐照や明代の画家日紀の画風を旨としていた。その後,安政年間に「藩命を以て江戸に出て,留まること八年,是時海内多事,時論i旬々,藩邸の事務多端にして,諸士安処する能はず,翁も亦之に鞍掌して,執筆の暇を得ず,絵事幾度と廃す」とあって,開国へ向かう世事多忙の故に,江戸在勤を命じられ,絵筆を執ることができなかったとされている。やがて帰藩。時はまさに明治維新直前直後の混乱期にあり,再びに流行し,雪舟その他の諸派を顧みるものなし,翁の画も亦時流の為に斥けられてJ'当時南画が隆盛をきわめていた熊本においては,雪樵の絵画は見向きもされなかったというのである。以上が,従来語られるところに拠った,このころの雪樵の大まかな姿である。その内容の検証はひとまず措き,次に,具体的にこの頃の遺品をみてゆく。まず,杉谷雪樵ゆかりの個人が所蔵する画稿類である。およそ1500件を数えるこれら画稿類はJ絵画叢誌』では西南戦争によって「悉く灰;瞳に委ね」たとされるものであろう。現在にいたる過程には不明な部分があるものの,幸いなことに,印章や硯などの遺品類とともに現存している。この画稿類は,ほとんどがl図ずつ独立した体裁をとるもので,模写,本画の下図と思われるもの,スケッチと思われるものとに大別される。この画稿類の性格についての詳細な検討は割愛するが,1500件のうち年紀を伴うものが全部で67件ある。もっとも早いものは天保10年(1839)正月22日に描かれた矢野良勝筆「月梅図」(注6)の模写であり〔図l〕,遅いものは,明治15年(1883)の「道元像」下図である。ここで注目されるのは,年紀のあるもの67件のうち,天保10年から同15年(1844)までに描かれたものが57件あることである。この時期は雪樵12歳から17歳までにあたり,いまだ父も存命中であった時期であるが,その画題ならびに款記をみると,矢野良勝の作品を多く模写し,矢野派の伝統ともいうべき,墨画の謹直にして重厚な山水図や道釈画を中心に描いていることがわかる。学習期において,矢野派宗家,なかでも名手と意識された良勝の作例や作風が,学ぶべき規範として強く意識されていたことが窺える。また,天保10年にはすべて「杉谷一太郎」の名

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